55. 妖精の輪
「キノコだっ」
森の手前にある草地に、大きくて白い笠を広げたキノコがいくつも生えていた。物珍しさに思わず手を伸ばす小さな男の子に、ブラックベリーを摘んでいた少女が叫ぶ。
「触っちゃダメ!」
ビクっと手をひっこめた男の子は、叱られたと思ったのか今にも泣きそうな顔をした。少女は抱えている籠の中から、真っ黒に熟れたブラックベリーを男の子の口にポンと放り込む。
「ほら、泣かないの」
甘い果実を美味しそうに食べる男の子。少女はその子の側にしゃがんでキノコを指さす。
「よく見て。地面にぐるっと大きな円を描いて生えているでしょ。あれは『妖精の輪』っていうの」
「妖精の輪? 妖精がいるの?」
目をキラキラさせる男の子に、少女はニッコリ笑う。一つの胞子から放射線上に伸びた菌糸が、その先端で発芽してキノコの環を作る。それが『妖精の輪』と呼ばれる現象だった。
「そうよ。あれはね、森の妖精が踊った跡なの。あの輪の中に入ると、不思議の世界に連れていかれちゃうのよ」
菌輪を作るキノコには毒性の強いものが多い。子どもたちが誤って食べてしまわぬようにと、それは先人たちの知恵が作り出したおとぎ話。
「ほんとうに? ほんとうに?」
興味津々に聞いてくる男の子の口に、少女はまた一つブラックベリーを押し込む。実際には、誰も別世界になど攫われたことはない。子供たちがどこかへ消えてしまうのは、妖精ではなく人間か獣の仕業だった。
「さあ、もう戻りましょう。もうすぐ夕食の時間よ」
少女は小さな男の子の手を引いて、道の少し先にある宿舎を目指す。子守がてら摘んでくるように言われたブラックベリーは、もう籠にいっぱいになっていた。
食堂で簡単な夕食と豪華なデザート『リンゴとブラックベリーのパイ』を食べ終わると、満腹になった子供たちは目をこすりだす。
「ウィルおじさんが帰ってくるまで、みんなと一緒に寝ようね」
母親の仕事が終わるまで、子どもたちはまとめて子供部屋に寝かされていた。すっかり眠くなった小さな男の子『ギル』も、床に敷かれたふかふかの藁布団に潜り込む。
「外はまだ明るいから、窓は閉めておくよ」
夏の名残でまだ日没までは時間がある。夕焼けの光で子供たちが起きてしまわないよう、窓は木戸でしっかりと覆われた。その戸の隙間から月光が漏れ出したのは、真夜中を過ぎた頃。ちょうど瞼に光が当たっていたせいか、ギルはふいに目を覚ました。
「ウィル、どこ?」
寝ぼけ眼でギルが周囲を見回すと、数人の子どもとその母親たちがぐっすり眠っていた。従者のウィルはまだ戻っていない。まだ夜なのに窓の隙間から差す光が急に強くなったので、ギルは不思議に思って部屋を抜け出す。
家の中は静まり返っているが、キッチンには火種を守るために寝ずの番をしている者がいた。彼女に見つからないよう、ギルは忍び足で戸口へ向かう。
「わあっ、きれいなお月さま!」
従者を探してこっそり外へ出ると、ギルは見たこともないくらい大きな満月に感嘆の声をあげた。森の上に出ている青白い月。もっとよく見ようと一本道まで歩みを進めたところで、ギルは夕方に聞いた話を思い出した。
「そうだ、妖精がいるんだった!」
小さな生き物を驚かせないように、ギルはこっそりと森のほうへ移動する。そして、ブラックベリーの茂みの影にしゃがんで、そっと『妖精の輪』の方を覗いてみた。
「女の人?」
キノコの環を囲むようにして踊っているのは、思わず息を飲むほど美しい三人の娘だった。足の動きに合わせてふわふわとした白いスカートが広がり、頭に被ったベールは月の光を反射して、凍った蜘蛛の巣みたいにキラキラと輝いていた。
「行っちゃダメ」
もっと近くで見ようとギルが身を乗り出したとき、よく知っている女の子のささやき声が聞こえた。驚いて振り返ると、今は離れて暮らしている『妹分』が立っていた。
「メアリアン! ここにいたの? アンはどこ?」
「しっ、しゃべっちゃダメ」
メアリアンはギルの口に手を当てる。そして、茂みの影からそっと、輪になって踊る娘たちを盗み見た。そんなメアリアンの姿も、彼女たちと同じようにほんのり白く輝いている。
「あの人たち、知ってるの?」
「うん。ウィリよ」
「ウィリって、精霊の?」
「うん。ママから聞いたでしょ」
ギルはアンが読んでくれた『森の精霊』の話を思い出した。結婚することなく死んでしまった娘たちは、夜になるとそっと墓から抜け出して、精霊となって朝まで『花嫁のダンス』を踊り続ける。花婿となるはずだった恋人が、いつか自分を迎えに来てくれると信じて。
「男の子はウィリに見つかっちゃダメなの」
「どうして?」
「つれていかれちゃうから」
「どこに?」
「わかんない」
二人は顔を見合わせる。ここはとりあえず逃げたほうがいい。そう思って踵を返したとき、ギルはうっかり服の端をブラックベリーの棘にひっかけてしまった。引っ張られた枝がガサっと音を立てる。見つかってしまったと、二人は「ひゅっ」と声をあげた。
『しーっ』
二人の前に突然現れたのは、精霊たちと同じ真っ白い服を着た綺麗な女性だった。唇の前に人差し指を立てて、やさしく微笑んでいる。彼女がブラックベリーの茂みから躍り出たのと同時に、メアリアンはギルの手を引いて森に向かって走る。
「あの人も、精霊?」
「ううん。おししょうさま」
「何それ?」
「まほうのせんせい」
「魔王のっ?」
「魔法のっ!」
森の中の暗い一本道を、二人は脇目も振らずに手を繋いだままひた走る。風に吹かれる葉の間から差す月の光で、地面はまるで波打つ水面みたいにチラチラ揺れて見えた。木の枝にはたくさんの鴉が目を光らせている。
「はやく、はやく」
長い闇のアーチを駆け抜けると、月明りに照らされた神殿が白く浮かび上がる。そこには温かく柔らかい灯が点っていて、二人を優しく包み込むように中へと招き入れた。