54. ヘンリー5世の法廷
森へ向かう一本道の両側には、見渡す限りの果樹園が広がっている。初秋の嵐に煽られたのか、薄緑のリンゴが湿った地面に落ちていた。それを拾い集める黒い老婆を横目に、旅の男は抱きかかえた子を起こさぬようゆっくりと馬を進める。
「話は聞いておりますよ。さぞお疲れでしょう。さあ、どうぞ中へ」
森の手前にある労働者の宿所で彼らを出迎えたのは、解体された女子修道院の元院主だった。修道院跡に残された農園の管理を任されているという。
ぐっすりと眠っている子を子守部屋の布団に寝かせると、男は食堂に案内された。出されたお茶からは、ほんのり甘いリンゴの香りが漂う。
働ける者は農作物の収穫に出かけ、幼子たちは昼寝中という昼下がり。残っているのは元院主と身重のために子守役をする女だけで、家屋の中は静まり返っていた。
「最西端の地で牧師をしているのは、昔からの知人……の孫なのですよ」
「それでは、乳母様もご存じで?」
「ええ、もちろん。家族同様に育ちましたからね」
老乳母が指定した『宿場』は、酒場付きの宿屋がほとんどだった。しかし、なぜか一つだけ農園が混じっていた。その理由が分かって、ウィルはようやく警戒を解いた。今でも白い修道服を身に着ける老婦人には、いかにも貴族出身という品の良さがあった。
「こちらにお部屋をご用意しましょう。しばらく滞在されてはいかがですか?」
旅はようやく三分の一を終えたところだった。ゆっくりではあっても馬での移動は疲れる。まだ幼いギルフォードには、数日は一か所にとどまって休息を取る必要があった。院主の好意にウィルはありがたく甘えることにする。
「お疲れでなければ、港町にお出かけになってはどうでしょう」
「しかし、あの子のそばを離れるのは……」
「心身が健康でなければ、どんなお役目も果たせませんよ。適度な息抜きは必要です」
王孫であるギルフォードは、どこで誰から狙われるかも分からない。始終警戒を怠らず周囲に気を配る旅に、ウィルの神経もすり減っていた。守る者が疲弊していては、守られる者を危険に晒す。
「では、あの子が起きてから……」
「そうですね、目が覚めて貴方がいなかったら、あの子も驚くでしょうから」
ギルフォードが起きるまでの間、院主はお茶を飲みながら地元サウサンプトンの見どころをウィルに話して聞かせた。特にウィルの興味を引いたのは『ヘンリー5世の法廷』と伝えられる酒場についてだった。
「今から150年以上前、ここからずっと東にある王城で国王ヘンリー5世はフランス侵攻の準備をしていたの」
「百年戦争中ですね。数で劣るイギリス軍がフランスの大軍を破った……」
「その通り。そのときに、国王廃位の企てが発覚したのです」
「サウサンプトン陰謀事件」
「よくご存じね。首謀者たちが裁かれた法廷があったのが、商店街にある酒場だと言われているの」
「しかし、彼らは王城に捕らわれていたはず。わざわざ街中に移送する意味がありますか?」
「そうね。ただ、ここの木骨造りの地下室は12世紀まで起源を遡るとか」
「では、元は城にあった部屋が移築された可能性がありますね」
「公式に証明するものはないんですよ。ですが、この酒場から立ち去る悲しげな彼らの幽霊が目撃されている」
イギリスの古い酒場に幽霊が出るのは珍しくない。しかし、この伝承はウィルの作家としての好奇心をくすぐった。ギルフォードが目覚める頃には、ウィルの心はすっかり『ヘンリー5世』の世界に引き込まれていたのだった。
「さあ、坊ちゃんは私たちに任せて。同じ年頃の子供たちもいますし、寂しいということもないでしょう」
「ありがとうございます。夜までには戻りますので……」
「ウィル殿、楽しむことは罪ではありません。たとえ数日戻らなくても、誰もあなたを責めたりしませんよ」
若い男たちには性処理が必要だと、男を知らない修道女であっても理解できる。ましてやウィリアム・シェークスピアは天から類まれなる戯作の才を与えられた者。その使命を全うするためには、女を抱くこともまた糧となる。
戸口で院主に礼を言ってから、ウィルは来た道を戻る。お目当ての酒場は入り江の向こうにあったが、馬を飛ばせば一時間もかからなかった。
高い天井、むき出しの梁、屋根の傾斜をつくる垂木まで吹き抜けの大広間。実際の酒場はホールハウスと呼ばれる当時の裕福な市民の一般的な住居建築で、少なからずウィルを落胆させた。
後にシェークスピアは『ヘンリー五世』の第二幕でサウサンプトン陰謀事件を扱うが、三人の男に死刑を宣告するのはこの酒場法廷ではなく城の評議会室としている。
「ねえ、今夜はここに泊まるの?」
酒を運ぶ若い女給がウィルに声をかける。繁華街の酒場で働く女たちは、払い次第で股を開く。ウィルは大きく開いた女の胸元に視線を走らせた。肌には張りがあって色艶もよく、病気を持っているようには見えない。
「これでどうだ?」
よく見れば若い女給は可愛らしい顔をしていた。これなら正面からでもいけると判断して、ウィルは相場より少し多めの金をテーブルに置く。女は積まれた硬貨に目を輝かせ、すぐにウィルを上階の寝室に誘った。
「ねえ、あんた、お貴族様でしょ」
女がウィルの耳元で甘くささやく。
「なぜそう思う?」
「抱き方が上品だから」
「物足りないってことか」
ウィルの動きがますます激しくなり、女が快楽に体を弓なりに反らした瞬間、寝室のドアが勢いよく開かれた。ウィルは瞬時に女から体を離し、ベッドから跳び降りる。そして、奇襲に備えて隠し持っていたナイフに手をかけた。
「相変わらず盛んだな」
戸口から入ってきた人物を見て、ウィルは素っ裸のままその場に膝をついて頭を垂れる。
「ご無沙汰しております」
商売女との情事に乱入してきたのは、かつてウィルが仕えた少年貴族。領主サウサンプトン伯ヘンリー・リズリー、その人に間違いなかった。