53. 薬草魔女
エジンバラの西に位置する小さな町には、女たちだけが知る不思議な合図があった。それは薬草魔女が鳴らす口琴。森からその奇妙な音が聞こえたら、今宵は秘密の会合が開かれる。そこへ集う者たちの姿を決して家族に見せぬよう、女たちは深夜になる前に窓や戸を固く閉ざす。
「薬がほしいんじゃが……」
背後から声をかけられて、妙齢の女は弦を弾く指を止めた。口琴をしまってから振り返ると、そこには黒いマントの老女が佇んでいた。かなりの高齢だが体は頑健に見える。
「どこかお悪いのですか?」
「体の節々がのぉ。痛くてかなわんのじゃよ」
「ちょっと熱を測りますね」
妙齢の女は老女の額にそっと手を当てる。冷たい皮膚と濡れた前髪の感触に、女の目がだんだんと三角に吊り上がる。
「また髪を乾かさずに出歩いて! 風邪を引いて当然ですよ」
「待て、ゲイルス。これにはが理由があるんじゃっ」
久々に元弟子の小言を聞いて、マーリンは縮み上がる。故郷で細々と薬を売っていると聞いていたが、ゲイルスは相変わらずに元気なしっかり者だった。
「とりあえず、私の家に行きましょう。お話は髪を乾かしてからです」
森の一軒家はいかにも薬草魔女の住み家に相応しかった。頭上に渡された吊り梯子からは、様々な薬用植物がぶら下がっている。生姜やニンニクから、ミント、セージ、ラベンダー、芥子、実をつけたベラドンナやトリカブトの根まで。
「で、何をしてきたんです?」
「あんまり言いたくないんじゃがのぉ……」
「痛みの原因を知らなければ、適切な薬を調合できません」
マーリンのマントには、ところどころに白っぽい粉が吹いていた。潮水に浸かったんだろうと、ゲイルスは当たりをつける。
「うむ。嵐の海での、船上で、その、こうやって箒に稲妻を……、集めたっていうのかのぉ」
マーリンは曲がった背筋をシャンと伸ばし、左手を前に突き出し右腕を頭上でぶんぶんと回す。
「なぜそんなことを?」
ゲイルスはさっと後ろに身を引いてから、呆れたような目で元師匠の滑稽な動きを観察する。
「偉大な魔法使いは水辺で炎の渦巻きをつくるんじゃよ。ほら、こう、杖をぐるんぐるんしてな。それの応用じゃ。カッコええじゃろう?」
肩と腰に痛みを感じて、マーリンは腕を振り回すのをやめた。ゲイルスの目が今度は半眼になる。
「また、異世界の映像を見たんですね」
「うむ。おもしろうてのぉ。シリーズ全七作じゃ。見始めたらやめられない止まらない」
「一日二時間までって決めましたよね? 私がいないからって、まさか覗き見放題じゃ……」
「いやいやっ、そんなことはないぞっ。約束は守っておる。一日二時間だけじゃ!」
マーリンの言葉は非常に嘘くさかったが、今更元師匠の愚行を諫めたところで、ゲイリスに何かいいことがあるわけでもない。
「……分かりました。老体に鞭打った無理な運動による筋肉痛ですね」
ゲイルスは棚から小瓶を取ってマーリンに手渡した。乳香をローズマリー油で煮た軟膏は筋肉の苦痛を鎮める。確かに症状には合っているが即効性はない。
「いつもの回復薬なら一発で効くんじゃがのぉ……」
「私は薬草師ですよ。魔法は使いません」
元師匠の遠回しなおねだりを、元弟子はバッサリと切り捨てる。薬用植物だけで十分に人を癒せると、ゲイリスには自信があった。
「さ、用が済んだらお帰りください。私は薬を売りに出ますから」
ゲイルスはそのまま戸口に向かい、そこに掛けてあったフード付きの黒いマントを羽織る。腕に下げた籠には陣痛を促進するイヌホウズキとエニシダ、催淫作用が麻酔となるヒヨスとマンドレイクから作った軟膏が入っていた。
「今からかえ?」
「ええ。みな待っていますから」
時はすでに深夜を回っている。闇に紛れてこの薬を求めるのは、望まぬ妊娠を強いられた未婚の娘だと推測された。おそらくは同じ苦痛を味わった女たちが助け合って、密かに堕胎の施術を行うのだろうと。
「異端の烙印を押されるぞぃ。やめておけ」
正にその異端の長であるマーリンの言葉を聞いて、ゲイルスはおもわず口元を緩めた。
「ご心配には及びません。人々の心身の苦痛を取り除くのが薬草師の役目」
すでに己の運命を受け入れているゲイリスには、誰が何を言っても無駄だった。マーリンは『ふぅ』と大きなため息をついてから、おもむろに懐から干からびた草を取り出す。
「薬の礼じゃ」
マーリンが差し出したのは、セリ科のオオウイキョウに似た見慣れない植物だった。訝しむゲイルスにマーリンは自慢げに説明する。
「シルフィウムじゃよ。昔はあちこちに生えてる雑草だったんじゃがのぅ」
紀元前にギリシアで発見され、催淫と避妊効果から古代ローマでは媚薬の原料とされていた。経口摂取すれば堕胎薬にもなる万能薬用植物。
「乱獲で絶滅した幻の? おばば様、また時空を越えて密輸を!」
「人聞きが悪い。これで儲けてはおらんぞ」
「そんな言い訳が通用するとでも? あの青リンゴだってずっと先の時代の……」
「可愛いと美味しいは正義じゃよ。堅いこと言いなさんな」
マーリンは茶目っ気たっぷりに『うっふん』と言いながらウィンクをした。偉大な魔法使いにして歴史を傍観する賢者。しかし、実態は有名人好きのミーハーで倫理感が欠如した色ボケ老女。しかし、元弟子の他にそれを知る者はいない。今度はゲイリスが盛大にため息をつく番だった。
ゲイリスの軟膏を使っていた集会は異端審問では『サバト』と呼ばれ、参加した者は悪魔との乱交に耽ったとして後に魔女裁判にかけられることになる。
しかし、どんなに迫害や拷問を受けても、誰一人その真の目的を漏らす者はいなかった。彼らは罪のない娘たちの名誉を守るために、その秘密を抱えたまま魔女として火刑されることを選んだのだった。




