52. 初物の膳
「なんと精緻な」
表をびっしりと埋める暗号に、デヴァルーは思わずため息をつく。文字や単語の置き換え、削除や繰り返しの指示など、あふれんばかりの記号が紙の上で踊っていた。
「先日パリから帰国した貴族が、フランス大使に届けたメアリー・スチュアートの手紙です」
イギリス諜報活動を司る国王秘書長官は、買収した大使館員から入手した手紙を指す。
「では、首謀者はフランスの......?」
「いいえ。こちらにはスペインの関与が書かれています」
執務机に置かれたもう一通の手紙。息子ジェームス6世へ宛てたほうには、スペイン大使の名が記されていた。
「大陸覇権を争うフランスとスペインが。では、これは教皇の……」
秘書長官は黙って頷く。カソリック大国のイギリス侵攻は、国教会を廃し旧教を復興させるのための大規模な陰謀だった。
「これだけ証拠があれば、カソリック派を一掃できますね」
デヴァルーの嬉々とした様子に、秘書長官は曖昧に微笑んでから、散らばった書類を鍵付きの箱に戻す。
「メアリー・スチュアートは、もう少し泳がせます」
「おとり捜査ですか?」
「反逆罪を立証するには、まだ証拠が足りない」
教皇の命に従って空になった王位を継承する。それだけでは、陰謀に加担しているとは言えなかった。
「こんな国家機密、私が聞いてもよかったのですか?」
「もちろんです。いずれ貴方様に諜報機関をお譲りしたい」
「なぜ私に? 長官殿にはもうすぐ立派な婿ができますし、ご令嬢に……」
子が生まれれば……と言おうとした途端、先ほど玄関で出迎えてくれた可憐な少女の淫らな姿がデヴァルーの脳裏をよぎる。
「婿殿は優れた詩人で、正義感に溢れた軍人。しかし、諜報活動には向かない。本当は貴方様に娘を嫁がせたかったのですが……」
デヴァルーは他の女を知る前に幼馴染を孕ませた。それが女王の私生子であれば、貴族からの縁談が来るはずもなかった。
「話はここまでにして、食事にいたしましょう。今日は領地の美味をご用意いたしましたので」
ダイニングテーブルには、ケント州で採れる『ネイティブ・オイスター』がならんでいた。殻が平たくて丸いのが特徴で、まろやかで濃厚な海の旨みとなめらかな舌触り、鴨肉を思わせる食感には定評があった。シーザーが『ガリア戦記』でその美味を讃えたブリテン島の牡蠣は、ローマ帝国統治時代には本国まで運ばれ、『かの地に誇れるものはない。この牡蠣を除いては』と評された。
「初物です。まだ誰も食していない海のミルク」
秘書長官はしきりにすすめるが、牡蠣を食べ慣れないデヴァルーの手は出ない。そんな客人の気持ちを察してか、秘書長官の一人娘が助け船を出す。
「新鮮な身は弾力があるので、こうやって噛まずに飲み込むのがいいんですよ」
娘はデヴァルーの目の前で、塩水に濡れてテラテラと光る瑞々しい牡蠣を手に取った。プリプリとした真珠色の身がちゅるりっと娘の薄い唇の隙間から吸われ、あっという間に飲み込まれて白い喉を滑る。その卑猥な様子に、デヴァルーは思わず唾を飲む。
「お客様より先に食べてどうする。ここはもういいから、客室の様子を見てきなさい」
父親の言葉に従って、娘は晩餐の席を立つ。唇の端を濡らすオイスターの露を舐めとった桃色の舌が艶めかしく、幼い容姿に似合わぬ色気にデヴァルーの下半身が脈打った。邪な欲望を誤魔化そうと、デヴァルーはワインを煽る。
「遅くにできた一人娘で甘やかしまして。無作法をお許しください」
「お体が弱いと聞いていましたが……」
「あれは嘘です。陛下は元々この縁談に反対でしてね。すぐ死ぬならば構わぬと」
「なぜ、そんな…… 」
「婿殿はレスター伯の甥。対スペイン主戦派の結びつきが強くなると、反開戦派との均衡が崩れると思われたんでしょう」
「それで嘘を。しかし、そこまでして好いた人と添わせるとは。ご令嬢はお幸せですね」
「ああ、それも偽りです。娘には操を立てたい想い人がいるのですが、すでに妻子がいて結婚はできない。婿殿も詩の女神以外の女は抱かないと誓っておられるので、白い結婚に都合がいいのです」
「待ってください、シドニー卿と姉は……」
別れているとは言い切れなかった。特に女王の宿直で彼らの激しい逢瀬を見届けたデヴァルーとしては、二人はこれからも人目を盗んで愛欲に耽ると確信できた。
「どうかお気になさらず。私は娘の希望を叶えてやりたいのです。愛しい男にだけ食されたいと願うのは、旬を迎える美々しい身には当然でしょう」
秘書長官はにっこりと笑うと、旬に入ったばかりの牡蠣を呑む。そして、給仕に合図をしてデヴァルーのグラスにワインを注がせた。
「さあ、ご遠慮なく。貴方様に手をつけていただけなければ、このお膳立ても無駄になりましょう」
言外の意味があるのかないのか。デヴァルーは返答に迷ってさらにワインを胃に流し込んだ。しかし、デヴァルーの舌は、さらりとしたワインよりも糸を引くようなどろりとした甘露を求めていた。
「お父様、用意ができました」
しばらくして一人娘が戻ったころには、デヴァルーは空きっ腹に入ったアルコールのせいで、すっかり理性を失っていた。
「顔が赤いですな。デヴァルー様は少しお酔いになったようだ。具合が良くなるまで、お前がお世話してさしあげなさい」
「はい。デザートはお部屋で。りんごの蜜はいい酔い醒ましになりますわ」
娘は嬉しそうにそっとデヴァルーの手を取った。その手の熱が伝わり、デヴァルーの身体に火がつく。
その夜、デヴァルーは初物の美味にあたったらしく、数日間ベッドから出られなくなる。重い中毒症状だったらしく、シーツには血や失禁の跡があった。
デヴァルーを付きっきりで看病したのは長官の一人娘。しかし、結婚を間近に控えた若い娘の肌はプルプルと弾力があり、連日の徹夜疲れなど感じさせぬ艶やかな真珠の輝きを放っていたという。