51. 国王の肖像
その部屋に一歩足を踏み入れた途端、ジェームズ6世の若き家庭教師は悪臭に顔をゆがめた。カンバスに向かう少年たち。思春期特有の彼らの体臭に、油絵の具の独特な臭いが追い打ちをかける。
早急に用事を片付けて退室する予定だったが、パレットに置かれた黄色の美しさに、家庭教師は思わず足を止める。
「きれいな色だな。顔料は何を?」
「エニシダでございます」
少年はそう返答すると、礼儀正しく頭を下げた。エニシダはブリテン島に広く生息する雑草で、葉から黄色の染料が抽出できる。枝が箒の材料となるため『スコッチ・ブルーム』とも呼ばれ、魔女の空飛ぶ箒もエニシダだと言われていた。
「服の布地と同じ染料か」
被写体の青年は鮮やかな黄色の衣を身に着ていた。白いレースのひだ襟が首元をぐるりと囲み、金や羽で装飾された輝石を付けた黒いベルベットの帽子をかぶっている。
「こっちは?」
「黄土です」
細かい粘土と酸化鉄の混合物は、配合の割合や成分の違いによって黄色から茶褐色まで幅広い色味を持つ。太古には洞窟壁画に、古代エジプトでは墓所の彩色に使われていた。
「雑草と土でこんな色が……」
「才はあっても財のない者ばかりです。高価な顔料は使えませんので」
感心したように絵の具を見てまわる家庭教師に、少年たちを指導していた画家が声をかける。彼は現職の後任として、来年には『国王の画家』となることが内々に決まっていた。
「陛下がパトロンになってくだされば、この子らの未来も開けるでしょう」
貧しいが見目麗しい少年たちの品評会。ここで国王に気に入られた者は、寵童として取り立てられる。
「正式な絵のコンペだ。上手な『国王の肖像』を描いた者には、相応の賞品が用意されている」
石板の上で絵の具を練る青年が、この企画の主旨を補足説明した。作業台の上には、大小のガラス瓶に入った色とりどりの粉末顔料が、所狭しと並んでいる。素焼きの壺には亜麻の種から採れる乾性油。液状になった松脂と蜜蝋も小皿に取り分けてあった。これらの材料を混ぜて油絵の具を作るのは画家の弟子の仕事になる。
「どうだ? いい色だろう」
中東で産出するラピスラズリから青色部分だけを取り出した顔料は希少で、ベネチアが独占輸入していた。つい最近スコットランドに訪れたデンマークの商人から、ジェームズが純金よりも高い値で買い取ったのだった。
八の字に滑る練り棒の下には、空よりも青い青が広がっている。しかし、家庭教師の目を奪ったのはその貴重な青色ではなく、額の汗を手の甲でぬぐう青年の美貌だった。彼の艶やかな笑顔の前には、どんな鮮やかな色も霞んで見える。
「なぜ画家の弟子の真似事を? 陛下が大人しく座っていなければ、誰も国王の肖像など描けないでしょう」
国王の衣装を着て椅子に座る青年は、国王本人とは似ても似つかない凡庸な容貌の持ち主だった。広い額に薄い眉毛。一重瞼のたれ目と大きな涙袋。長い鉤鼻とおちょぼ口。しかも、表情に乏しいせいか非常に愚鈍に見える。
「肖像画など意味がない。見栄と嘘で美化された絵よりも、贅沢と遊興にしか興味のない『空っぽ頭』という噂のほうがずっと信憑性がある」
無造作に壁に立てかけられている肖像画は、デンマーク王家から贈られたものだった。そこに描かれた金髪の美少女はジェームズ6世と縁談がある第二王女。
「政略結婚に期待されたところで、『私の王妃』には愛も子種も与えられぬからな」
悪魔の呪いでどんな女にも勃たない男色家。そのジェームズ6世が抱けたのは、町娘アン・ウェイトリーだけだった。彼女は子を死産したが、ジェームズが生殖能力を有している証となった。
「私の子を産むのは、この世にただ一人だけだ」
「その件でご報告が……」
ジェームズは汚れた手を布で拭き、練りかけの絵の具を画家に託す。高価な顔料を使った絵の具は、デンマークへ送る『国王の肖像』を描いた者への褒賞だった。
「すぐに戻る。品評会の準備をしておけ」
「かしこまりました」
ジェームズは家庭教師と共に足早に部屋を出る。廊下には歴代の国王の肖像がずらりと並んでいた。
「例の鳥が戻りました。計画成功の合図です」
「彼女は無事なのだな?」
「これが証拠です」
家庭教師がポケットから取り出したのは、北欧製の白地に白糸の刺繍を施した小さな布袋だった。その中に入っていたのは一房の亜麻色の髪。それは確かにかつてジェームズが幾度となく口づけた女の髪だった。
「リズリーの忠義には、いつか必ず報いてやろう」
リズリーがアンを領地に匿ってからほぼ一年になる。追っ手の目を逃れるため、敢えて果樹園で労働に従事させていると連絡を受けていた。
「あの男の娘の婚礼は?」
「今月です」
イギリス諜報活動元締めである秘書長官の一人娘は15歳で、倍も年齢が違う軍人と結婚することになっていた。
「祝いの金を送れ。それから例の手紙も一緒に」
アンの安全と引き換えに、秘書長官が要求したのはメアリー・スチュアートの『暗号表』だった。家庭教師が丁寧に書き写したものを渡してあったが、それを使って読み解くべき『手紙』はまだジェームズの手元にあった。
「デンマークの王女との縁談を進める」
「よろしいのですか?」
「美しい絵姿に心が動いたとでも言っておけ」
「承知いたしました」
「必ず迎えに行く。アンは私の大事な女だ」
王女の肖像画を届けたデンマーク商船は、物資輸送のため属領アイスランドに渡った。その後ジェームズの意向に従ってサウサンプトンに寄港し、領主ヘンリー・リズリーの『荷物』を乗せてから本国へ帰国。すべては秘書長官の計画通りだった。
しかし、その途中で不思議な嵐に遇い、『荷物』の一部を損失したことは伏せられていた。ジェームズがその事実を知るのは約六年の後。政略結婚の船旅で、彼が同じ嵐に遭遇したときとなる。