50. 推定相続人
女王が入室すると、長テーブルの両側に座っていた貴族たちが一斉に立ち上がる。みな揃って黒いローブを羽織り、首をぐるりと取り囲むレースのひだ襟を着用していた。閉じた扇を傾けることで、女王は彼らに着席を促す。
「レスター伯がまだですが……」
左側の筆頭席で大蔵卿が告げる。この老人は女王を幼少期から支えた顧問であり、今はサウサンプトン伯リズリーの後見人でもあった。
「気にせずともよい。男が十人もいれば、決められないことなどあるまい」
人数が少ないほど効率的に意思決定ができると、女王は枢密院の定員を十一名まで減らしていた。それでも、男ばかりの小部屋はむさくるしく、重厚な赤のテーブルクロスや毛織のタペストリーも暑苦しい。
女王は定位置となる上座に腰を下ろすと、すぐに扇を広げて火照る顔を仰ぎだす。折り畳み式の扇はこの頃大陸で開発されたものだが、女王は場所を取らずに用途を果たす機能を気に入っていた。
「本日の議題は、私生子の相続権について」
「私生子と言いましたかな? 庶子ではなくて……」
右側の先頭に座る国王秘書長官の言葉を受けて、大蔵卿が打ち合わせ通りの質問をする。いかにも芝居がかったやり取り。だからこそ、これが女王の意を汲んだものだとの証明になる。
「庶子とは父に認知された非嫡出子ですが、実際にその男の血を引くのかを証明するのは不可能。しかし、生母と赤子には血縁関係に疑いの余地もない」
「誰の胤か分からぬ嫡子や庶子に、男は自分の財産を相続させているのだ。私生子に母の財産を継がせて何が悪い」
秘書長官の説明に女王が己の見解を付け加える。すぐさま顧問官の一人が異議を唱えた。
「それでは婚姻の神聖性が否定されます。嫡子とは神に誓った結婚から得られるもの。血縁関係は信仰が証明することになっています」
枢密院は女王の諮問機関。国の利益のために、ここでは自由に女王に意見を述べることが許されている。
「私は『信仰の擁護者』だ。神が認めた婚姻関係に異議を唱えるわけではない」
「しかし、婚前や婚外の性交渉は、結婚の尊厳を傷つけるものです」
「未婚の処女を手篭めにしたのは神であろう」
「聖母は性交渉ではなく聖霊に……」
「聖母とて愛する男の子を望んだはず。結局は神に理不尽な力で孕まされた哀れな娘」
「冒涜です。神はならず者ではない!」
「そう思うのは男だけだ。誰も触れたことのない聖母の膣。それを最初に貫いたのは紛れもなく神そのもの」
女王の言葉に男たちは口を閉ざす。三位一体という概念からみれば、処女に食指を動かした父なる神も、彼女を孕ませた聖霊も、その処女膜を内から破った神の子も同じ唯一神であった。
「そして、我が子を見殺しにした」
「それは人類救済のため……」
「目的のためには手段を選ばない。神は身勝手な男。やはりならず者だ」
神の命に背いて『禁断の実』を食べ、楽園を追われた人間の男と女。それでも人間を赦したい神は、父の情ではなく己の欲を優先させた。それが神の愛だと尤もらしい理由をつけて。
「修道院解体で尼僧院も閉鎖。私生子を産んだ娘は蔑まれ、もはや娼婦に身を落とす以外に生きるすべもない」
「救貧措置は地方行政が担っております」
「監督官もみな男。矯正院では妊婦や子供にも過酷な労働をさせていると聞く。彼らを救うためには、法でその権利を保障すべきだ」
女王によって最初の『救貧法』が制定され、改正を経てイギリス社会福祉制度の礎となるのは、これより十五年以上も先の話となる。
「父王の定めた第三継承法に従って、私は私的な幸福を諦めた。だが、神のご意思で子を授かった。母の血と意志を継ぐ者」
臣下であるダドリーとの結婚は、王位継承の条件となっていた枢密院の許可を得ることができなかった。しかし、二人の間には幾人もの子が成され、そのうちの一人は今も健在だった。
この法案は未婚女性や私生子の権利ではなく、女王とその推定相続人のためのもの。顧問官たちは女王の意図を正しく理解して、それぞれが思案し始める。
「王が人間の女である以上、母の偉業を成し遂げることが民を守る。私は国教会の聖母として慈悲による統治を目指す。これはそのための布石」
女王はそう言い切ると、これで話は終わりというように席を立つ。女王に敬意を払うために全員が立ち上がったが、彼女を見送るために部屋を出たのは長いつきあいの大蔵卿だけだった。
「マダム、本当によろしいのですか?」
「私が聖母を語ったと知れば、教皇も黙っておるまいな」
秘書長官から『暗号表』を入手したという報告を受け、国内のカソリック派の反逆心を煽る罠を仕掛ける。この企てには大きな危険が伴っていた。
「フランスとスペインも動くでしょう」
「カソリック大国に蹂躙されれば、国民は搾取に苦しむことになる。国教徒も過酷な弾圧をうけるだろう」
姉王『血のメアリー』の所業が再び繰り返される。それを避けるためには、教皇の命で動くカソリック貴族を一掃する必要があった。
「しかし、これでは御子に危険が及びましょう」
大蔵卿は心配そうに言う。確かにその懸念は正しく、すでにジェーンには暗殺の手が伸びていた。女王は一瞬だけ俯いて目を閉じ、次の瞬間には頭をあげて正面をまっすぐ見つめる。
狭くて暗い廊下の先は、議会が開かれる大広間に繋がっていた。百人を超える貴族たちが、そこで女王の入場を待っている。女王はたった一人で彼らと戦い、玉座から国の未来を導く必要があった。
「聖母の慈悲とは、その人生における七つの悲しみ。我が子の死を見届けるは、民の幸福のために聖母が受ける苦難」
「マダム、まさかご自分の御子を……?」
開け放たれた広間のドア。そこからの光に吸い込まれていく女王の後ろ姿に、大蔵卿は思わず膝をついて頭を垂れた。
女王エリザベス。晩年の彼女は『聖母・女王』と呼ばれることを好んだと伝えられる。




