49. 嵐の爪痕
砂浜に打ち上げられた男たちは、意識を取り戻すと怯えたような様子で何かを訴え始めた。その聞き慣れない言葉から、おそらくは外国船の乗組員だと推測された。
『急に風が強くなってよ。豪雨のせいで命令なんて聞こえなくなっちまった』
『近くに商船がいたんだが、すぐに高波で見えなくなった。沈んだのかも分からない』
『遠くから女の悲鳴が聞こえたんだよ。空耳じゃねえ。確かに聞いたんだ』
『帆を落とそうとしたら、マストに雷が落ちた。それで綱が切れちまった』
『幽霊だよ。真っ白に光ってて。あの天気で全く濡れてもなかった。それが証拠だよ』
『強風に煽られて船が右に大きく傾いた。だから、みんな必死で海に飛び込んだんだ』
『黒づくめの婆さ。船首に立って雷を集めてた。こう、左手で棒みたいなもんを振り回して』
『雨で視界が悪くてよ。気が付いたときは霧が出てた。この時期にありえねえ』
『航海の慰みに連れてこられた女さ。あの娼婦が甲板から飛び降りてから、急に海が荒れだしたんだ』
『いや、客なんかじゃねえ。空からいきなり船上に現れた』
『普通の嵐とは違った。あんな大波、これまで見た事ねえよ』
『あれは魔女だ。悪魔の仕業だ』
彼らの言うことは支離滅裂だったが、嘘を言っているようには見えなかった。幸いにも少しだけ英語の話せる船員がいたため、救助に当たった役人らは彼らの言っていることをなんとか理解できた。
海に身を投げた娼婦。
白い女の幽霊。
雷を操る婆。
三人の女。
外国人船員の証言が書かれた報告書を確認しながら、リズリーは塔を丸く囲む砲台から沖に目を向けた。
海峡に飛び出た狭い砂洲に建てられた城塞からは、右には深水路を隔てた対岸が、正面にはワイト島が見渡せる。近年の火災で要塞は修復が必要だが、三十を超える大砲の管理のために常に兵を置いていた。
「それで、船は沈んだのか?」
眼下に広がる灰青色の水面は滑らかで、船員たちを脅かした荒波を想像することすら難しい。沖に浮かぶ雲は薄く濁ってはいるが、凪いだ海上では吹き流れることもない。
「目撃者はいません。船の残骸も見つかっておらず……」
40年前にこの海峡に沈んだ軍艦も、約800年後に引き上げられるまでほぼ完全な形で海底に留まっていた。比較的波が穏やかな内海では、重量のあるものは浜に打ち上げられない。
「亡くなった者は?」
人ならば浮力の助けで運ばれてくる。たとえ衣服が水をたっぷり吸っていったとしても、その重さは人を水底に引き留められるほどではない。
「行方が分からない者たちは生死不明です。ですが、船員らはみな口を揃えて言っています。海に落ちた瞬間に大波が襲ってきて、そのまますぐに浜に打ち上げられた……と」
「だから、助かったと言うのか?」
「はい。まるで魔法のように……」
部下の額に緊張の汗が流れる。伯爵といってもまだ少年である主に、魔法などという言葉を使うのは憚られた。子どもだからと侮ってはいけない相手だということは、いつも側で仕えていればよく分かる。
「遺留品は?」
「あちらに揃えてあります」
砂浜に設置された天幕の中には、わずかに流れ着いた品物や衣服が置いてあった。筵の上に並べられていたのは船員の靴や帽子、切れた網やマストの切れ端。
そして、べっとりと濡れて砂まみれになった灰色の毛皮。それを見た瞬間、リズリーは頭から血がザアっと音を立てって引くのを感じた。
「女物か……」
「はい。船員が見た娼婦のものではないでしょうか」
海に飛び込んだという女。着ていたのがこの毛皮ならば、彼女はまだこの海のどこかを彷徨っているということになる。遺体の確認ができなければ、それは何の意味も持たない。
「ここにあるものは、すべて証拠品として押収する。港の倉庫へ運んでくれ」
リズリーはこういう事態を想定し、ここ数日中に死んだ売春婦の遺体を保管させていた。その中には偶然にもリズリーが求める『亜麻色の髪の乙女』もいると、金を握らせた港の役人から報告されている。
「この件は他言無用だ。船員たちは大陸行きの船に乗せて、すぐにでも自国へ送り返せ。もしもこの話をどこかで漏らしたら、魔女に呪い殺されると脅しておくのを忘れるな。逃がしてやると言って、恩でも着せておけ」
リズリーの指示に従って、付き従っていた部下たちが動き出す。その様子を確認してから、リズリーは海岸線を覆う島に目を向けた。そこには姉と敬愛する高貴な人がいるはずだった。
「今しばらくお待ちください。必ずや御身の安全をお守りします」
二人を隔てる海峡には、無数のカモメが飛び交っていた。その白い姿は美しく、その鳴き声は物悲しい。しかし、彼らは鴉と同じく雑食で動物の死骸も食べる。それが溺れた人間の遺体であっても。
「三人の魔女……」
船員たちの証言を思い出し、リズリーはそう呟いた。それに応えるように、塔の上で真っ黒い鴉がギャーと鳴く。どこにでもいる鳥なのに、リズリーはなぜかアンがいた修道院跡が脳裏をよぎった。
「そうか。この城塞にはあそこの石と鉛が使われていたんだったな」
解散した修道院の建材は、あちこちで再利用されていた。いつも練習の的にしているものと同じ石。リズリーはなにげなく鴉を的にして、弓を絞る真似をする。
「バシッ」
見えない弓を放った瞬間、リズリーは無意識にそんな声を発した。それに驚いた鴉が、バサっと羽音を立てて飛び去る。
「外したな。矢の無駄だ」
リズリーは吐き捨てるように言ってから、ぎゅっと唇を噛む。血管が浮き出てしまいそうなほど強く握った拳は、行き場のない怒りをため込んでいるかのようにぶるぶると震えていた。