47. 遥か西へ
13世紀に造られた人工湖。その湖岸に建つケニルワース城は、レスター伯ダドリーが爵位と共に女王から賜った難攻不落の砦だった。城壁の外側には堀がめぐらされ、入口は二箇所のみ。
美しい湖の景観を楽しむため、貴賓は南東の小島から外門を抜け、内門まで続く長い堤を通る。北門は城下町に面していて、主に物資の搬出入や使用人たちの出入りに利用されていた。
城主の義息デヴァルーのメッセンジャーだったウィルは、いつも北門の前でリズリーからの伝言を待った。従者となってからはこの門から城に出入りしていたので、門番は当然に顔見知りだった。
それでも入城を断られると思ったのに、すぐに門の横にある小さな扉が開いた。ウィルを出迎えたのは、一時期かなり懇ろだった女中。彼が城を出てからは、ずっと疎遠になっていた。
「老乳母様がお待ちです。急いで支度なさいませ」
女中は乱れた髪を白いハーフボンネットに押し込みながら、保管していた従者の服をウィルに手渡した。今日は物陰で早急に交わっただけだが、上気した女の肌は艶を増し、首筋からは甘い色気が匂い立つ。
「老乳母殿が?」
「あんたが来たら、丁重に迎えろとのご命令よ」
女中はウィルの前に跪くと、己の体液で汚れたウィルの体を丁寧に清める。彼女の技は絶妙でウィルを再び奮い立たせたが、長い不義理への抗議なのか、女中はその処理はせずに、最後はただ下履きの紐を固く結んだだけだった。
「ウィル! ああ、よく戻ってきてくれた」
「乳母殿、ご無沙汰しております。その節はご迷惑を……」
老乳母はウィルの謝罪を遮って、女中に人払いを命じる。再会を喜ぶ間も惜しむかのように、彼女はすぐに本題に入った。
「頼みたいことがあるんだよ。今、巷で何が起こっているか知っているかい?」
「詳しくは知りません。近隣で兵が集められていることだけしか」
老乳母はウィルの答えに納得したように頷く。本当のところは老乳母でさえも分かっていなかった。しかし、不測の事態が起きた場合にすべきことは、ジェーンから事細かに伝えられていた。
「ギル坊ちゃんを、私の叔父……いや、甥の元に送り届けてほしいんだ」
「ギル様を?」
「ジェーン様のご指示だよ。もしものときはウィルに頼むようにと」
老乳母の言葉を聞いて、ウィルは胸のポケットから革袋を取り出す。そこには、以前ジェーンから預かった品が入っていた。王家の紋章チューダー・ローズを象った指輪。
「ジェーン様から、これをお預かりしています。ギル様をお守りするようにと」
「深いお考えがあってのことだろう。引き受けてくれるかい?」
「もちろんです。私でお役に立つならば」
老乳母はウィルに大まかな事情を説明をする。ジェーンは女王の娘で、イギリス王位継承を目論むメアリー・スチュアートに狙われているため、今は身を隠していること。ギルフォードは唯一の王家直系男子だということ。
「あの女は坊ちゃんの存在に気づいていない。今ならまだ追われずに済むはず」
ウィルは熟れた年増の味を思い出す。メアリー・スチュアートは、男に依存するしか能のない美しい人形だった。その行動に計画性があるとは思えない。
「乳母殿の甥御様はどちらに?」
「ここから南に下ると海に出る。そこから海岸線に沿った西の最果てに」
ウィルはブリテン島の地図をざっと思い浮かべた。この国の西端はコーンウォール領。そこには干潮時にだけ歩いて渡れる『森林の中の白い石』という島があると聞いたことがあった。
「あそこは王家の直轄地。公爵位は『王の最年長の息子』が自動的に世襲することになっている」
「では、いずれはギル様が……」
老乳母は満足そうに頷く。ジェーンが王位に就けば、そのままギルフォードが領主となる。爵位が空の期間は王の信任が篤い者が管理しているため、王孫を匿うには最適な土地だった。
「最先端の岬に建つ教会で、甥は今も牧師をしている。まずは坊ちゃんをそこへ連れて行っとくれ」
「承知いたしました。すぐに準備を」
幼児を連れての移動となると、馬車でも数週間はかかるだろう。途中にはいくつもの荒野が横たわり、野生動物の餌が不足する冬場の移動は危険だった。
「くれぐれも坊ちゃんの素性が知れぬよう、言動に気を付けておくれ」
「心得ております。なるべく目立たないように行動いたしますので」
旅に必要な情報と資金を受け取れるよう、老乳母は各地に宿屋を手配していた。ウィルはその名前と合言葉を頭に叩き込む。
「どうか頼んだよ。戻ったら褒美は弾むからね」
「いえ。ジェーン様への恩返しになれば、それで十分です」
各地を旅して見聞を広めることは、ウィルにとっては魅力的なことだった。どんな経験も創作の糧となることを、作家である彼はよく知っていた。それでも気にかかることはある。
「一つだけ、お願いがあるのですが」
「私にできることなら、なんでもしましょうぞ」
自信満々な笑みを浮かべ、ふくよかな胸をどんと叩く老乳母とは対照的に、ウィルは決まり悪そうに視線を逸らし、ためらいがちに口を開く。
「妻と娘のことです」
「ああ、アグネスたちのことかい。心配しなさんな。私がきちんと面倒を見ておきますよ」
「私の大切な家族です。何かあれば必ず教えてください。どんなことでもかまいません」
「ええ、ええ、約束しましょう」
「どんなことでも」
「もちろん。どんなことであっても」
老乳母の言質を取って、ウィルは安心したように大きく息を吐いた。後にアグネスの産んだ双子の洗礼式にウィルがなんとか間に合ったのは、この老乳母の連絡のおかげだった。
日の出前に出発するため、老乳母とウィルはギルフォードの部屋へと足を速める。そして、これが老乳母とギルフォードの永の別れとなったのだった。