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45. 愛と魔術

「こんなところにおいででしたか」


 スコットランド王の若き家庭教師は、閉架書庫にジェームズ6世を見つけて安堵する。国王は床に平積みになった本を熱心に見ていた。部屋の中はインクと古い羊皮紙の匂いで溢れている。


「城内ならば、どこにいても構わぬだろう」


 軟禁状態は脱したとはいえ、傀儡の王に自由はない。家庭教師はそんな彼を気の毒に思い、せめて新鮮な空気を入れようと窓を開ける。


「何かお探しですか。手伝いましょう」


 ドイツで活版印刷が発明されてから1世紀あまり。宗教書を皮切りに一般書物の印刷も急速に進んだとはいえ、まだ手書きの写本しかない学術書も多い。備え付けの書棚には、そんな貴重な古書がぎっしりと並んでいた。


「ここにあるものを、すべてエジンバラ大学へ」


 ジェームズの言葉に家庭教師は目を輝かせる。エジンバラ大学は国王勅許で創立されたばかりだった。


「教授陣も喜びましょう。学生らの学習意欲も刺激されます」

「ここに留めておけば、虫に喰われて朽ち果てるだけ。私のようにな」


 国王の権威を食い物にして、思うままに国を操る名ばかりの忠臣たち。学識豊かな王は国政に関与できず、その能力を無駄に遊ばせているだけだった。


「そんな顔をするな、冗談だ」


 どんなに優れた書物であっても、それが読まれなければ存在しないと同じ。そういう理由で、カソリック派に都合の悪い諸説を記した本は、人目に触れないようここに隠されていた。国王が手にしているのも、その内の一冊。


「『魔女術の発見』か。著者はレジナルド・スコット。聞いたことがないな」

「出版に先だっての献呈本です。内容が教会の責任を問うものでしたので……」


 イギリス人スコットは魔女の存在を否定し、魔女裁判を不合理だと批判した。また、魔法を手品や奇術の類いだとして、ペテン師に騙された事例として紹介している。


 ジェームズは床に転がっていたもう一冊の本を手にとって、その表紙に記されたドイツ名タイトルの『悪魔による眩惑』を流暢に発音した。


「ドイツ人医師ヨーハン・ヴァイヤー。彼は魔女の症例とは病の一種だと主張していたな」

「昨今の魔女狩りの風潮に逆らい、悪戯に人民を惑わす悪書だと……」


 ヴァイヤーは魔女と告発された者の行動を、医学的観点から解き明かそうとした。彼らを弁護したため、自身も「魔術師」や「悪魔狂」と世間から痛烈な批判を受けている。


「悪天候、不作。突然死や疫病も魔女のせいか。その証拠はどこにある?」

「目に見えないからといって、存在していないと言い切ることはできません。その真実を探ることこそ、学ぶことの意義」


 ジェームズ6世はこの若き家庭教師から歴史・神話・地理・医学を、そして老家庭教師から語学・天文学・数学・歴史・修辞学を学んだ。この書庫には、他にも帝王教育に相応しい本がそろっていた。


「ここは老先生の功績の賜物。多くの大学図書館の蔵書目録から、陛下によいと思う本を選んで入手しておられた」

「目録だけでは飽き足らず、実際に訪ね歩いたからな」


 ジェームズ6世がオックスフォード大学に出向いたのは、老家庭教師の蔵書調査に同行しただめだった。その学生寮で身の回りの世話をした女中が、彼の情人となるアン・ウェイトリー。


 アンを残して帰国したことをジェームズは少なからず悔いていた。老家庭教師に母子ともに死んだと報告され、それを疑わなかったことも。


「オックスフォードの図書室は面白かった。盗難防止に貴重な蔵書は鎖につながれていた。大事なものはしっかり捕まえておかねば盗まれるということだ」

「興味深いですね。どんな本か覚えていますか?」


 見えない鎖につながれた国王の心情を慮って、家庭教師が話題をそらす。その気遣いへの謝意を込めて、ジェームズは記憶を辿る。


「たとえば旧約聖書。ヘブライ語の写本だった」

「読めるのは相当な神学者だけでしょう」

「だろうな。聖書には訳本が必要だ」


 ジェームズ6世は棚から翻訳された旧約聖書を抜き取った。そして、レビ記の一文を読み上げる。


『獣と交わり、これによって身を汚してはならない。また女も獣の前に立ち、これと交わってはならない』


「面白い訓戒だと思わないか。家畜との交配を好む者などいないだろう」

「本能を剥きだしにした人間はつまり獣。これは快楽に溺れて乱交に耽る貴族らを牽制したものです」

「獣にならずに、どうやって愛する者と交われと言うのか。神は童貞(バージン)だな」

「その母も聖母(バージン)でした。原罪を犯さぬ純潔」


 ジェームズはちょっと肩を竦めてから、もう一文を抜きだす。


『女と寝るように男と寝てはならない』


「それは、イスラエルの民を迫害した国の風習を非難したいがだけの……」


 きまり悪そうに言い訳をする家庭教師に、ジェームスは美しい笑顔を向ける。この美丈夫に誘われれば、老若男女を問わず、誰もが喜んでその褥に侍るだろう。家庭教師はため息をつく。


 実際には、ジェームズも何度か理性に従って女と寝ようとした。しかし、その体は使い物にならなかった。

 男にならいくらでも勃つが、女は全く愛せない。この呪いを解けるのはアンだけだと、ジェームズは本能的に知っていた。


「魔女は悪魔の力で、男の精気を損なって女を抱けなくしたり、逆に異常なほどに性欲を増進させたりするという。本当だろうか」

「では、魔女とはまるで恋人のようですね。愛の理不尽で男を苦しめる悪魔」


 家庭教師は思い立ったようにギリシア語の写本を手に取り、その一節を読み上げる。新約聖書マタイによる福音書。有名な悪魔の試練の場面だった。


 悪魔は主を高い山に連れて行き、この世のすべての栄光を見せて言った。

『もし貴方がひれ伏してこの私を崇拝するなら、すべてを貴方にあげましょう』

 すると、(しゅ)は彼に言われた。

『サタンよ、退け。我はただ我が神に仕えるのみ』


 家庭教師がそこまで読んだところで、急に吹き込んだ強風にページがパラパラと捲れた。二人が振り返ると、窓枠に隣国から贈られた美しい猛禽類がとまっていた。

<参考>

著書: 『悪魔学(デモノロジー)』 (1597)

著者: スコットランド王ジェームズ6世


【抜粋】

我はこの書により、二人の邪説に反論する。一人はイギリス人スコット。もう一人はドイツ人医師ヴァイヤーである。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 学識高いジェームズの、単なる女嫌いの男好きのエロ魔人(言い方ひどすぎる)ではない、キリスト教徒らしい自身への苦悩が見えるようでした。 本来備わっているはずの理性と、本来抱えてはならないはず…
[一言]  おや、気に入ったように見えたのですが、否定して見せたのですね。
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