44. 自由を生きる
「あれは大陸へ渡る船だ」
海岸を見下ろす高台から、リズリーは沖に停泊する帆船を指す。吹き上げてくる強風に乱れる後れ毛を押さえ、アンは初めて見る海に目を見張る。
規則正しい波音がアンの耳に響く。繰り返し寄せる白波が砂浜を打ち、砂で濁った水が海へと引いていく。その先にある水面は鏡のように滑らかで、少しも動いているようには見えなかった。
「あれがフランスなのですか?」
水と空の分岐点には、陸地のようなものが見えた。アンは以前に見た世界地図を思い出す。家庭教師だったウィルの説明によれば、イギリスの南にはフランスという国があるはずだった。
アンの知識不足を笑うことなく、リズリーは丁寧に説明する。
「あれはワイト島だ。王家の直轄地。大陸はもっともっと先にある。ここからでは見えないな」
「そんなに遠いのですか……」
目の前に広がるのは、群青色の海と幾重もの雲に覆われた濃い灰色の空。晩夏の太陽はまだ落ち切っていないため、ところどころ雲の切れ間から微かに光が差していた。
「ここは風が強い。中へ」
リズリーの指示で護衛がそばにある小屋の木戸を開ける。石造りの小屋の中は薄暗く、窓にはめられた板が風でガタガタと音を鳴らしていた。
暖炉にくべられた薪と蝋燭の明かりを頼りに、二人は粗末な木のテーブルを挟んで椅子に座る。
「思ったより悪くないな。よく使いこまれている」
「羊飼いの家ですね。糸車に羊毛がかかっています」
床は綺麗に掃き清められていたが、小屋の角には刈られた羊毛と束ねられた毛糸が無造作に置かれている。その他にはなんの変哲もない農夫の小屋だった。たった一つの例外を除いては。
「なぜ、私をここへ? あの船を見せるためでしょうか」
ジェーンの呼び出しと聞いてリズリーに従ったが、アンは行き先が領主屋敷でないことに途中から気が付いていた。道を知らなくとも、夕焼けの位置や風向きから方角を知ることはできる。リズリーは馬を目的地とは反対方向に疾走させた。
「お前に頼みがある」
「頼み……ですか?」
領主の依頼はつまり命令。アンには断る権利はない。リズリーはただ声高に、それを言い渡せばいいだけだった。しかし、彼は何かに迷っているかのように、なかなか口を開かない。薄暗い部屋の中のせいか、その顔には濃い影が落ちていた。
「あの船に乗ってもらいたい」
リズリーの言葉に、アンは息を飲んだ。それはつまり外国へ行くということ。あの海の先に何があるのか、アンには想像することすらできなかった。
そこは言葉も分からず知る人もいない場所。天涯孤独の身とはいえ、そんな世界に放り込まれて生きていけるとは到底思えない。むしろ、ここで死ねと言われたほうが、アンにとっては気が楽だった。
「ジェーン様の代わりに、海を渡るんだ」
なぜかと問うことは、アンには許されていない。理由を聞いたところで、アンの置かれている状況が変わるわけではない。その事実に思わず涙がこぼれそうになり、アンは顔を見られないように俯いた。
「……それで、私は何をすればいいのですか?」
「何もしなくていい」
すでにアンを迎える準備ができているという。必要なときは彼らの指示に従えばいいと言われても、それでアンの恐怖が消えるわけではなかった。体の震えを抑えようと、アンは両腕で自分の体を抱きしめる。
「ジェーン様のためだ。行ってくれ」
リズリーの言葉にアンの肩がビクっと跳ねた。断ることはできない。自分にはその資格はない。アンはこれまでずっとそう思って、自分の望まぬことも受け入れて生きてきた。
『アン、あなたはどうしたい?』
ジェーンの声がアンの耳に蘇る。ここで何も聞かずにリズリーの依頼を受ける。それが、本当に敬愛するジェーンに報いることになるのか。アンは逡巡する。
『私が愚かだったの。自分で立ち向かわなければ、その人生には意味がない』
そう言って詫びたジェーンの真摯な姿が目に浮かび、アンの胸に強い決意が沸き上がる。
「……ならば、どうか私のなすべきことを教えてください。なぜジェーン様の身代わりを。 その目的は、一体なんなのですか?」
抗えない運命ならば、その使命を全うする。人生が選べないのであれば、操り人形ではなく自分の意志で動く人間として。
たとえこの身は運命に囚われていても、その心までは縛ることはできない。限りある命に永遠の魂が宿るように。それが自分に許された自由なのだと、アンはようやく確信する。
「それを知れば、この願いを受けるのか?」
「いいえ。お引き受けしたからこそ、それを知りたいのです」
アンの目に希望の光が戻ったのとは対照的に、リズリーの表情は先ほどよりも暗く曇っていた。まだ青年にさえなりきっていない彼には、それはおそらく荷の重すぎる任務だった。
「たとえ、それが死ぬことだとしても?」
予想通りの答えに、アンは逆に安堵を覚えた。だからこそ、これは命令ではなく願い。そして、ジェーンとして立派に死ぬことは、生きることよりもずっとうまくできると、アンには自信があった。
「はい。どうか私の価値を教えてください。どうやって死ねば、この命が役に立つのか……」
ジェーンのために、明確な意図をもって死に赴く。アンの思いが伝わったのか、リズリーは黙って立ち上がり、入り口近くに置いてあった長櫃をそっと開ける。それは一つだけこの小屋に不似合いな家具で、美しい彫りの細工が施されていた。
「これを羽織って海へ……」
リズリーがアンに差し出したのは、冬にジェーンが好んで着ていた白いマントだった。高潔な主に相応しく、一点の穢れもない毛皮。その美しい姿を血で汚すことは許されない。
取るに足らない己にも、その命で愛する人を守ることができる。リズリーの話を聞きながら、アンはその事実に静かな満足を得ていた。