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43. 純潔の獣

「すごい風だわ。あんなに枝が揺れて。果樹園は大丈夫かしら」


 透き通ってはいるが歪んだ硝子窓から、ジェーンは外を見下ろしていた。すぐ手前には松明に照らされた門番小屋の円錐屋根。そこから伸びる城壁の外側には湖が見える。湖面はざわざわと波立ち、対岸にある樹木は強風に煽られて狂ったように踊っていた。


「落ちた果実はいい酒になる。同じ品種でも風味が違うのは土の仕業だろう」


 ダドリーは硝子製のデカンタから、濁った林檎酒を銀杯に注ぐ。窓に張られた板ガラスとは違って、吹き硝子製品には職人の精巧な細工が施されていた。雨で湿った空気を乾かすため、暖炉には少しだけ火が入っている。


「彼らの様子はどうだった?」

「二人とも元気でしたわ」


 果樹園で働くアンとその娘メアリアン。ジェーンがこの地を訪ねたのは、夫の愛人とその娘を見舞うためだった。


「それはよかったな。お前も安心しただろう」

「はい。彼らをここに追いやったのは、他の誰でもなくこの(わたくし)ですから」


 ダドリーは己の娘の善良さにため息をつく。正妻が愛人をどう扱おうと、誰からも非難される謂れはない。だが、ジェーンがそんなことをするはずもないのは、父親であるダドリーにはよく分かっていた。


「無理を言ってごめんなさい」

「可愛い娘の頼み。お安い御用だ。それにデヴァルーには頼めないだろう」


 本来なら王位継承権を持つ王女として、臣下である夫からも(かしず)かれる身分。しかし、現実では『貴族の庶子』として里子に出され、婚姻前に乳兄弟に孕まされた。

 その出自のせいで、正妻となっても日陰の身には変わりない。こうして夫の愛人たちの行く末にまで心を砕く娘を、ダドリーは心底不憫に思う。


「私は幸せ者ですわ。これまで何の(かせ)もなく、愛する者たちと自由に生きてきたんですもの」


 父の心情を察した娘は、心配をかけまいと穏やかな笑みを浮かべた。しかし、その表情はすぐに真剣な面差しを帯びる。


「ですが、私の代わりにアンの命を狙われるなんて。そんなこと、あっていいわけがありません」


 ジェーンは父親に向かって、きっぱりとそう言った。従順で優しい気性だが、ジェーンは正義感が強い。現状を知れば必ずこう言うだろうと、ダドリーは密かに確信していた。


「では、覚悟ができたのだな」

「はい。アンに会って、決心がつきました」


 元スコットランド女王メアリー・スチュアートは、身代わりを務めていたアンを女王の娘ジェーンだと思い込み、各地に暗殺者を放っていた。秘密警察が捕縛した者たちは、どんな拷問にかけてもメアリー・スチュアートの関与を否定したが、何人かはアンの絵姿を隠し持っていたのだった。


「アンにはアンの人生を。私は私の責務を果たします」


 メアリー・スチュアートを油断させ、女王暗殺を目論むカソリック派の陰謀を暴く。それが『女王の後継者』として生きることに決めたジェーンの最初の任務だった。


「ギルフォードのことは、乳母に任せてあります。私に何かあったときは、信頼できる者に託すようにと」

「そうか。レティス殿もすべて承知だ。事態が落ち着くまで、なんとか城を守ってくれるだろう」


 ダドリーは空になった杯を置いてから、ジェーンに近づきその小さな体をそっと抱きしめた。女王との間に残されたたった一人の娘。この子を守るためならば、ダドリーは悪魔に魂を売り渡すことも厭わない。


「すべては手配済だ。お前は何も心配しなくていい」

「はい。ありがとうございます」


 ダドリーは自分のマントを取ってジェーンに着せかけた。金のチェーンで繋がれたマントの留め金(バックル)がキラリと光る。


「さあ、そろそろ出発しよう」

「でも、まだリズリーが……」


 リズリーはジェーンを屋敷に送り届けてから、河口に停泊している船を調査するために再度出かけていた。カソリック国の船ならば、その目的を明らかにする必要がある。場合によっては撃沈することも。


「大丈夫だ。港で合流することになっている」


 実際にはダドリーの命で、リズリーはアンを連れて行動していた。いざというときの囮として。メアリー・スチュアートが狙っているのはアンで、本物のジェーンではない。ちょうどいい目くらましだった。


「嵐が来る前に出たほうがいい。雨が車輪の跡を消す」

「今から海へ?」


 サウサンプトン領から海峡を挟んだ南方には、ワイト島が位置している。大陸の敵国、特にフランスの攻撃に備えて、要所には防衛のために城塞が築かれていた。


「このまま島に渡る。あそこは王家直轄地で守りが堅い。来月には甥のフィリップも来る」

「フィル従兄(にい)様から、話は聞いていますわ。新婚旅行で奥様所縁(ゆかり)の地を回るとか」

「島の司令官は花嫁の異父兄。王家への忠誠が篤い者だ」


 年若く病弱な花嫁の療養という名目だが、ジェーンのよい隠れ蓑となる。敵味方のスパイが入り乱れる本土よりも、島は出入りする人の統制がずっと簡単だった。


「アンは大丈夫でしょうか。できれば、一緒に……」

「よく似た背格好の娘の死体を手配した。海に放り込めばふやけて、傷んだ顔の判別はできまい」


 アンの扮する『ジェーン』は死んだことにする。そのためにはジェーンの痕跡をすべて消すしかないと、ダドリーはそう説明した。


「うまく騙されてくれるでしょうか」

「女王の白(てん)のローブを着せ、王家の紋章を刻んだ装飾品を持たせる」

「お母様の……」


 白貂の冬毛は真っ白で、尻尾の先だけが黒い。純白の毛皮が血で(けが)されることを恐れ、狩られる前に自ら死を選ぶと言われていた。処女王を飾るにふさわしい『純潔』を象徴する小動物。その毛皮は非常に希少で、簡単には複製することはできない。


「メアリー・スチュアートを廃するまでの辛抱だ。秘書長官殿が証拠を手に入れるために動いている」


 カソリックの陰謀を暴くには、その計画を(つまび)らかにするための暗号解読が必要だった。暗号表を持つジェームズ6世。その情婦アン。すべての駒はすでに手中にあると、ダドリーはこちらの優位を過信していた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 「過信」この単語だけで不穏さが倍増……! シンプルかつドラマチックな表現ですね! 一話一話、丹精込めて彫り上げた工芸品みたいな趣があり、すごいです。でも登場人物たちはそれどころじゃなさそう…
[良い点] >透き通ってはいるが歪んだ硝子窓 すごく鮮明に見えました! 外をのぞくジェーンの姿から、荒れ狂う空模様へと映像が移り、それからまたカメラが室内に戻ってくる、というような。 美しいです………
[一言] 7月から連載を再開なされてホッとしております(#^.^#) お忙しい事と存じますが、何とか頑張ってくださいませ!!(*^^)v
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