40. 冤罪
背後から近づく人の気配を感じて、アンは跪いたままで振り返った。アンの目に映ったのは、フード付きの黒いケープを羽織った白衣の老女。その手には古びた箒を持っている。
「マーリン様! すぶぬれで!」
アンは急いで立ち上がり、新しい白布をつかんでマーリンに駆け寄った。 マーリンは濡れたケープの肩から水を払うような仕草をする。
「この布で拭いてください。今、暖炉に火を入れますから」
「気にせんでええ。ちょいと様子を見に寄っただけじゃからの」
まだ夏とはいえ、雨は冷たく風も強い。濡れたままでは健康に差し障ると思われた。
「すぐにお着替えを。なぜこんな天気の中を……」
「ああ、この嵐はワシのせいじゃよ。ちょいと女神さんに意地悪されてのう。雨雲に追いかけられたんじゃ」
不思議なことに、濡れているのはケープと箒だけで、他は雨に打たれていないようだった。
マーリンはケープを脱ぎながら、恨めしそうな顔で右の女神像を見上げる。
「やれやれ、女の嫉妬は怖いもんじゃ」
「嫉妬……ですか?」
「そうじゃよ。ヒステリーとも言うかのぉ」
アンはマーリンの視線の先を見つめた。女神像はいつもと変わらない慈愛の表情を浮かべている。
「好いた男に想い人がおっての。つまりは失恋したんじゃ」
「女神様が?」
「お前さんも聞いたろう。恋に破れた嘆きの声」
「あの鳥の……」
鴉の鳴き声と共に濁流のようにアンを飲み込んだ感情の渦。あれは女神の悲しみの叫びだと、マーリンはさも普通のことのように言う。
「全く逆恨みもいいとこじゃ。女神さんに責められる謂れはない。正しく冤罪じゃよ。わしは飛べども鳥ならず」
なぞなぞのような物言いに、アンはウィルから伝え聞いた『アーサー王の物語』を思い出す。マーリンは王に予言の謎解きをする大魔術師だった。
「マーリン様、今夜はこちらでお休みください」
「いや、ゆっくりしてもおれんのじゃ。このまま海まで行かにゃ」
「危険です。河口には不審な船が……」
領主リズリーの口ぶりから、海に停泊しているのは海賊船か敵国の船かもしれなかった。アンはリズリーの言葉をそのままマーリンに伝える。
「心配することはない。あれはアイスランド島からの船じゃよ。本領に戻るところじゃが、ちょいと気になることがあってのぉ」
そう言いながら、マーリンは脱いだケープをアンに手渡した。ぐっしょりと濡れていたはずなのに、それはふんわりと軽く柔らかく、もうすっかり乾いていた。
「おや、それは何じゃな?」
マーリンが箒の柄で指したのは、アンの腰に下げられた布袋だった。ジェーンから手渡されたブローチが、レースに包まれたまま入っている。
「頂きものです。私には過ぎた品なので、神殿で預かっていただければ……」
「ほう? どれ、この婆に見せとくれ」
アンは布袋からブローチを取り出した。マーリンはアメジストの美しい紫に目を細める。
「美しい細工だの。ちょいとそのケープを羽織ってみぃ」
躊躇するアンに、マーリンは半ば強引にケープをひっかけた。そして、ケープの胸元をブローチで裏側から留める。
「大事なものはのぅ、お守り代わりにいつも身に着けておくのがええんじゃ。この先の嵐の備えに、そのケープもお前さんにやろう」
畏れ多いとばかりにアンがケープを脱ごうとすると、院主が尖塔から戻ってきた。マーリンがいるのを見ても、特に驚いた風もない。
「マーリン様、森の中から馬が。こちらに向かっているようです」
「うむ。人が来たようじゃな。急いで外へ」
マーリンに促されて、院主がアンを神殿から連れ出す。すでに雨は上がり、雨雲が去った場所から向こうは茜色の空が広がっていた。
二人が外に出ると、背後の神殿はとたんに寂れた修道院跡になった。人の目には苔むした廃墟としか映らない。
「こんなところで何をしている」
廃墟前の院主とアンにそう問いただしたのは、この地の領主リズリーだった。数人の供を連れている。
「雨漏りの様子を見ておりました。アンは私を探しに来たのです」
アンをかばうように院主が一歩前へ出る。院主は修道院跡を管理する元尼僧。身分差があるとはいえ、祖母と孫ほどの年の差のせいか、彼女の威厳はリズリーを圧倒していた。
「今夜は外に出てはならない。アン、私と一緒に屋敷へ来い。ジェーン様のお召しだ」
院主とアンが問う暇もなく、リズリーはさっさとアンを自分の馬に乗せた。挨拶もそこそこに去っていく彼らを見送る院主の隣には、いつの間にかマーリンが立っている。
「マーリン様、これでよろしかったのですか?」
「運命は変えられん。じゃが、それに抗う人の性もまた変えられんもの」
森の中へ消えていく蹄の音を聞きながら、マーリンは「ふぅ」と大きなため息をついた。