表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

39/56

39. 女神の涙

 アンが労働者の宿所に戻ると、すでに皆が本格的な嵐に備えていた。大人たちは表に出しっぱなしの農具や収穫物を片付け、子どもたちは大部屋に集められている。


「上からの命令だよ。今夜は外に出ちゃならん」


 年嵩の労働者がアンの言葉を伝える。まだ日が長いとはいえ、森に囲まれた集落で夜に出歩く者はいない。これは身を潜めろという意味だった。


 仲間たちは急いで宿所の中に入り、雨が吹き込まないように格子窓の木戸を閉める。


「ママ、お客さまのパイは?」


 アンのスカートの裾をつかんで、メアリアンが小さな声で尋ねる。人前ではジェーンを『お母さま』と呼んではいけない。幼い彼女もそれをきちんと理解していた。


 ジェーンの言葉を伝えると、メアリアンは大いに落胆した。しかし、非常時の興奮からか、すぐに気を取り直して周囲の子供たちと遊びだす。


「アン、森にも伝えとくれ」


 年嵩の労働者が年若いアンに声をかけた。この時間、院主は森の修道院跡、つまり神殿にいる。雨はまだ本降りになっていない。急げば嵐の来る前に戻って来られると思われた。


 メアリアンの様子を確認してから、アンはそっと外に出る。降り始めた雨はまだ霧状で、濡れたところでさほど不快感はない。

 森に入れば、濡れることもないだろう。アンはそう判断して、そのままの格好で歩き出す。


 ついさっきまで青かった空は灰色の雲に覆われ、森の中はすでに暗かった。 (からす)が盛んに鳴き声を上げて、枝から枝へと飛び移る。


「鳥がこんなに騒ぐなんて。やっぱり雷が近いのね」


 バサバサと羽音を響かせるその黒い不気味な姿に慄き、アンは不安を隠すように独り()つ。 森の奥へ進めば進むほど、鴉の数は増えていくようだった。


「カラスは女神様の使いよ。大丈夫。怖いことなんてない」


 アンは足元に目を落とし、前のめりの姿勢で更に足を早めた。 無数の鴉がギラギラと目を光らせ、アンの頭上を埋め尽くす。


 強風でざわざわと揺れる葉枝の間から、ぽつぽつと雨粒が漏れ落ちた。それがアンの頬をかすめたとき、 遠くに明かりが見え始めた。アンは追従者を振り切るかのように、一心不乱に駆け出す。


 ようやく神殿に到着すると、奥の祭壇の前に院主が一人佇んでいた。微動だにせず、怖い顔でじっと女神像を見つめている。


「院主様?」


 アンの声に振り返ると、院主はいつもの優しい笑顔を浮かべる。


「アン。どうかしましたか?」

「ご領主様からの伝言をお持ちしました。今夜は外に出ないようにと」


 アンがそう言い終わるか終わらないかのうちに、女神像の方向からピチャっという水音が聞こえた。右側の女神像の頬に水が伝う。


「涙……?」

「いいえ。あれは雨漏りでしょう。アン、そこの布で拭いておくれ。私は屋根の様子を見てきます」


 確かに天井からの雫が、女神像に滴っていた。アンは祭壇の側に積まれた白い布を一枚とって、近くにあった踏み台に乗る。院主はその間に、神殿の屋根を見下ろせる尖塔へ向かって、螺旋階段を登っていった。


 雨に濡れた女神の表情は寂しそうで、何かを憂いているように見えた。アンは女神の頬を布でそっと撫でる。


「なんて悲しそうなの。本当に泣いているみたい」


 そのとき、神殿を囲む森の中から、耳をつんざくような鴉の一声が響いた。天敵に襲われた野鳥の断末魔の悲鳴。その深い嘆きの声は波となって、神殿の中に押し寄せる。


 心臓が切り裂かれるような痛みを感じて、アンは思わず胸を押さえた。この感情には覚えがある。愛する者を失った苦しみ。愛しい子を亡くした痛み。それによく似ていた。


「どうして……」


 アンの頬に涙が伝う。最後に泣いたのは、我が子を弔ったとき。あの悲しみを二度と味わいたくないと、アンは人を深く愛することを遠ざけていた。


 それなのに、アンは大切な者の存在に気付かされる。メアリアン、ギルフォード、ジェーン、デヴァルー、アグネス、ウィル。そして、ジェームズ6世。

 彼らを失う恐怖に襲われ、今度は胸の鼓動が早鐘のように鳴り出した。 大きな喪失感に、呼吸が苦しくなる。


「何か良くないことが……」


 女神の頬を拭うアンの手に、雨粒が数滴ボタボタと落ちた。その冷たさに驚き、アンはヒッと声をあげて、白布を取り落とす。

 直に触れた女神像の頬は氷のように冷たい。悲しそうだった表情が今は消え、彼女の凍えるような怜悧な美貌を取り戻していた。


 雨は次第に激しさを増していたが、その雫が女神の頬を打つことはもうなかった。アンは踏み台から降りて、女神像の前に跪く。


「どうかご慈悲を」


 熱心に祈るアンを、女神像はいつもと変わらぬ美しい姿でただ見下ろしていた。

 神殿の入口には来訪者の姿があったが、その足音は土砂降りの音にかき消され、アンの注意を引くことはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言]  女神像に涙とかって、思わせぶりですよね~~~(^^)
[良い点] わー!わー! 更新ありがとうございます……っ! ものすごーくものすごーく、楽しみにしている作品が更新されて、本当に嬉しいです!!! 更新に浮かれまくってしまっていますが、それはさておき。…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ