39. 女神の涙
アンが労働者の宿所に戻ると、すでに皆が本格的な嵐に備えていた。大人たちは表に出しっぱなしの農具や収穫物を片付け、子どもたちは大部屋に集められている。
「上からの命令だよ。今夜は外に出ちゃならん」
年嵩の労働者がアンの言葉を伝える。まだ日が長いとはいえ、森に囲まれた集落で夜に出歩く者はいない。これは身を潜めろという意味だった。
仲間たちは急いで宿所の中に入り、雨が吹き込まないように格子窓の木戸を閉める。
「ママ、お客さまのパイは?」
アンのスカートの裾をつかんで、メアリアンが小さな声で尋ねる。人前ではジェーンを『お母さま』と呼んではいけない。幼い彼女もそれをきちんと理解していた。
ジェーンの言葉を伝えると、メアリアンは大いに落胆した。しかし、非常時の興奮からか、すぐに気を取り直して周囲の子供たちと遊びだす。
「アン、森にも伝えとくれ」
年嵩の労働者が年若いアンに声をかけた。この時間、院主は森の修道院跡、つまり神殿にいる。雨はまだ本降りになっていない。急げば嵐の来る前に戻って来られると思われた。
メアリアンの様子を確認してから、アンはそっと外に出る。降り始めた雨はまだ霧状で、濡れたところでさほど不快感はない。
森に入れば、濡れることもないだろう。アンはそう判断して、そのままの格好で歩き出す。
ついさっきまで青かった空は灰色の雲に覆われ、森の中はすでに暗かった。 鴉が盛んに鳴き声を上げて、枝から枝へと飛び移る。
「鳥がこんなに騒ぐなんて。やっぱり雷が近いのね」
バサバサと羽音を響かせるその黒い不気味な姿に慄き、アンは不安を隠すように独り言つ。 森の奥へ進めば進むほど、鴉の数は増えていくようだった。
「カラスは女神様の使いよ。大丈夫。怖いことなんてない」
アンは足元に目を落とし、前のめりの姿勢で更に足を早めた。 無数の鴉がギラギラと目を光らせ、アンの頭上を埋め尽くす。
強風でざわざわと揺れる葉枝の間から、ぽつぽつと雨粒が漏れ落ちた。それがアンの頬をかすめたとき、 遠くに明かりが見え始めた。アンは追従者を振り切るかのように、一心不乱に駆け出す。
ようやく神殿に到着すると、奥の祭壇の前に院主が一人佇んでいた。微動だにせず、怖い顔でじっと女神像を見つめている。
「院主様?」
アンの声に振り返ると、院主はいつもの優しい笑顔を浮かべる。
「アン。どうかしましたか?」
「ご領主様からの伝言をお持ちしました。今夜は外に出ないようにと」
アンがそう言い終わるか終わらないかのうちに、女神像の方向からピチャっという水音が聞こえた。右側の女神像の頬に水が伝う。
「涙……?」
「いいえ。あれは雨漏りでしょう。アン、そこの布で拭いておくれ。私は屋根の様子を見てきます」
確かに天井からの雫が、女神像に滴っていた。アンは祭壇の側に積まれた白い布を一枚とって、近くにあった踏み台に乗る。院主はその間に、神殿の屋根を見下ろせる尖塔へ向かって、螺旋階段を登っていった。
雨に濡れた女神の表情は寂しそうで、何かを憂いているように見えた。アンは女神の頬を布でそっと撫でる。
「なんて悲しそうなの。本当に泣いているみたい」
そのとき、神殿を囲む森の中から、耳をつんざくような鴉の一声が響いた。天敵に襲われた野鳥の断末魔の悲鳴。その深い嘆きの声は波となって、神殿の中に押し寄せる。
心臓が切り裂かれるような痛みを感じて、アンは思わず胸を押さえた。この感情には覚えがある。愛する者を失った苦しみ。愛しい子を亡くした痛み。それによく似ていた。
「どうして……」
アンの頬に涙が伝う。最後に泣いたのは、我が子を弔ったとき。あの悲しみを二度と味わいたくないと、アンは人を深く愛することを遠ざけていた。
それなのに、アンは大切な者の存在に気付かされる。メアリアン、ギルフォード、ジェーン、デヴァルー、アグネス、ウィル。そして、ジェームズ6世。
彼らを失う恐怖に襲われ、今度は胸の鼓動が早鐘のように鳴り出した。 大きな喪失感に、呼吸が苦しくなる。
「何か良くないことが……」
女神の頬を拭うアンの手に、雨粒が数滴ボタボタと落ちた。その冷たさに驚き、アンはヒッと声をあげて、白布を取り落とす。
直に触れた女神像の頬は氷のように冷たい。悲しそうだった表情が今は消え、彼女の凍えるような怜悧な美貌を取り戻していた。
雨は次第に激しさを増していたが、その雫が女神の頬を打つことはもうなかった。アンは踏み台から降りて、女神像の前に跪く。
「どうかご慈悲を」
熱心に祈るアンを、女神像はいつもと変わらぬ美しい姿でただ見下ろしていた。
神殿の入口には来訪者の姿があったが、その足音は土砂降りの音にかき消され、アンの注意を引くことはなかった。