38. 禁断の果実
「お母さま、これが一番甘いリンゴよ」
小さな胸に抱える熟れた果実よりも、息を切らして駆けてきたメアリアンの頬のほうが赤い。手渡された小ぶりな林檎から芳醇な香りが立ち、ジェーンはうっとりとした表情を浮かべる。
「まあ、美味しそう。嬉しいわ」
晩夏の午後。まだ高い太陽の光に照らされて、葉の鮮やかな緑と実の燃えるような赤が、抜けるような青空に映える。
「ママ、パイを焼きましょうよ。お母さまもきっと気に入るわ」
幼いながらに何かを理解しているメアリアンは、ジェーンを『お母さま』、アンを『ママ』と呼ぶ。実際はどちらも実母ではないが、それを知る者は少ない。
「そうね、先に戻って台所を使えるか聞いてくれる?」
アンがそう言うと、メアリアンは頷いて労働者の宿所へ向かって走り出した。その後ろ姿はあっという間に見えなくなる。
果樹園の芝生に敷いたブランケットの上に座る母二人は、そんな娘の成長に目を細めた。もう走って追いつくことはできないかもしれない。
「突然の訪問で驚いたでしょう。本当は事前に連絡するべきだったんだけど」
「いいえ。こんなところまで来ていただけて、どれほど光栄なことか……」
労働が免除される安息日に、ジェーンが二人を訪ねたのは偶然ではない。その細やかな気遣いがアンを更に恐縮させる。
「お城は変わりないでしょうか。ギル様は?」
「元気よ。でも、あなた達がいなくて寂しがっているわ」
アンも同じ気持ちだった。乳を与えて育てたギルフォードは本当の息子のように愛しい。 メアリアンも彼を兄と慕っていた。
「もちろん、旦那様もね」
アンは反応に迷う。デヴァルーのことを思い出さないわけがなかった。しかし、それが正しいことなのか、アンには分からない。
「今はもう愛人もいないわ。私に逃げられると困るみたい」
「まあ……」
「男って本当におバカさん。妻には逃げる権利なんてないのに」
ジェーンの表情にわずかな影が差す。しかし、それを隠すかのように、彼女は明るい声で会話を続けた。
「アグネスには女の子が生まれたわ。母子ともに健康よ」
アンが安堵の息を漏らす。ジェーンはこの機会を逃すことなく、何気ない口調で話を続けた。
「ウィルにも会ったの。あなたのことを心配していたわ」
結婚式当日に姿を消した花嫁に、元婚約者の消息を聞く資格はない。曖昧な笑みを浮かべただけで、アンは静かに目を伏せる。
「これをあなたにって」
ジェーンが取り出したのは、ウィルから預かった品だった。受け取ったときのまま、今も美しいレースに包まれている。
「ウィル様が……?」
「彼の気持ちよ」
アンがそっと布を解くと、そこには陽光に反射して燦然と輝くアメジストのブローチが入っていた。スコットランド国花のアザミをかたどった紋章。ウィルがその才能を認められ、国王ジェームズ6世から賜った家宝だった。
「これを私に?」
「ええ」
「こんな大事なものを!」
「......だからこそ」
スコットランド王室のお抱え劇作家となる。ウィルにとってこのブローチはその足掛かりになるはずだった。
「受け取ってあげて。 約束を果たせなかったと、彼は随分悔やんでいたわ」
「約束……?」
ウィルが語ったアンとの未来。それはスコットランド国王ジェームズ6世に仕えて、その盾となることだった。アンの耳にウィルの言葉が蘇る。
『これを見せて参じろと』
ジェームズ6世への道標が、今アンの手の中にある。ウィルは何もかも知っていたのかもしれない。そんな微かな疑いが、アンの胸を締め付ける。
「旦那様もウィルも、あなたの心を手に入れられなかった。でも、あなたが人を愛せないとは思えないの」
ウィルの贈り物を胸に抱くアンに、ジェーンはずっと心に秘めていた問いを口にした。
「ねえ、アン。あなたは誰を愛していたの?」
アンの肩が微かに震える。それは考えてはいけないことだった。その禁忌を犯せば、元には戻れなくなる。アンの心がずっとそう警告していた。
しかし、そんなアンにも自分の気持ちを確かめるときが来た。 自由に生きるとは、全ての責任を負うこと。籠から逃げた鳥が、自分の力だけで厳しい自然で生き抜く必要があるように。
「私がお慕いしているのは……」
アンの言葉を遮るように、果樹園の木々の間を突風が吹き抜けた。強い風に煽られて、リンゴがいくつか地面に落ちる。ついさっきまで晴れていた空が、瞬く間に黒い雨雲に塗り替えられていく。
「西から雲が」
「嵐が来るのね。もう夏は終わるんだわ」
二人の頭上を鴉が飛び交った。まるで黒雲が運んでくる闇に怯えるように、やかましい鳴き声を上げる。
「鳥があんなに急いで……」
「雨が降る前に寝床へ帰るんでしょう。私達も戻った方がいいわ」
頬に雨粒を感じて、二人はすぐに立ち上がった。アンは林檎の籠とブランケットを抱え、ジェーンと共に果樹園の出口に向かう。空気に混じる鉄の臭いが、雷が近づいていることを物語っていた。
農道に出たところで、ちょうど迎えが到着した。サウサンプトンの家紋がついた美しい馬車と腕の立つ騎馬兵。領主のリズリーが馬車から降りて、ジェーンの前にさっと跪く。
「ジェーン様、すぐ屋敷にお戻りを」
「何かあったの?」
「河口に見慣れない船が停泊しています。調べさせてはいますが、念の為にご用心されますよう」
ジェーンの手を取って馬車に乗せると、リズリーはアンに目配せをした。
「今夜は外に出ないように。皆にもそう伝えてくれ」
「承知いたしました」
ジェーンは馬車の窓から、心配そうにアンに声をかける。
「気をつけて。また日を改めて会いに来るわ。メアリアンにもよろしくね」
「はい。リンゴのパイを焼いてお待ちいたします」
アンは膝を折って深く頭を下げる。そして、ジェーンを乗せた馬車が公道に入ったのを見届けると、降り出した雨の中を駆け出した。