37. 暗号表
スコットランド王ジェームズ6世とその家庭教師は、城外の森の入口にある鳥舎に向っていた。灰色がかったオレンジの空を一羽の鴉が横切る。
「不吉だな。あの姿にはぞっとする」
「戦場で死肉を啄む鳥ですから」
その羽音に反応したのか、遠くから『クィックィッ』という甲高い鳴き声が響く。たちまち鴉が視界から消えた。
「あれは何の声だ」
「猛禽類のメスでしょう」
「耳障りだな。派手に囀る鳥よりも、物言わぬ花がいい」
ジェームズは恋人アン・ウェイトリーを思い出す。控えめな美しい花。固く閉じた蕾をゆっくりとこじ開けると、堪え切れないというように甘美な息を漏らす。受粉を誘う花蜜は濃厚で、蜜壺に落ちた獲物が果てるまで執拗に絡みつく。
「薔薇には棘があります」
家庭教師が釘を刺し、ジェームズが応戦する。
「命を狩る猛禽類よりマシだ」
実際、彼らのこの行動は命を危険に晒しかねないものだった。表向きは隣国大使との私的な交流だが、その裏に何が隠されているかは分からない。
鳥舎の前で彼らを待っていたのは、黒い服に身を包んだ隣国の秘書長官。諜報活動の元締めなる男は、その小柄な体には似合わない大きな鳥を腕に乗せていた。
「それが自慢の鳥か?」
黒い小男は恭しく頭を下げてから、鳥の乗った腕を胸の前に掲げる。
「マーリンでございます」
「なるほどな。これほど立派な鳥を飼い慣らすには、すいぶんと費用も時間もかかることだろう」
諜報活動に私財をつぎ込むせいで、この小男の家計が火の車であることはジェームスの耳にも入っていた。この鳥もその活動の一環だろうと容易に想像できる。
「飛ぶ姿が見たい」
「仰せのままに」
小男は勢いをつけて腕を振り上げる。鳥はすばやく夕空に舞い上がり、空高く弧を描き始めた。それを見届けてから、二人は森に沿って歩き出す。付き従うのは家庭教師ただ一人。
「話とは何だ」
「こちらに」
小男から手渡された書簡には、ジェームズの母メアリー・スチュアートの封蝋が押されていた。確かに本人の筆跡だったが、すべてが無意味な記号や文字の羅列で内容を読み取ることはできない。
「フランスから入手したものです」
ローマ教皇とフランス貴族が計画したエリザベス女王暗殺に関する書簡。
「これを読み解くためにご協力を」
ジェームズは己の潔白を証明するため、母親からの書簡はすべて開封せずに保管していた。その中に『暗号表』があるのだという。
「断る。親を売るなど神の教えに反する行為」
「女王は御母上を誅する気はございません」
「では、一体何が目的だ?」
「かの国の関与をあぶりだすこと」
実際にこの諜報活動は功を奏し、数カ月後にはスペイン大使が国外退去処分となる。それ以降、女王の治世にスペインの大使が置かれることはなかった。
「他を当たってくれ。そういった面倒事には巻き込まれたくない」
ジェームズはため息をつく。宗教の信念は私欲の言い訳で、結局は富を奪うための口実にすぎない。彼はつい最近までプロテスタントに軟禁され、カソリックに救出されたところで実権を握れたわけでもない。
「陛下には大事な宝がおありでしょう」
「何のことだ?」
そう言われてジェームズが思いつくのはアンだけだった。世界中に諜報網を張っているこの小男には、おそらく彼女のことも筒抜けだと思われた。
「女王は御娘に王位継承権を付与する予定」
エリザベスが秘密裡に何度も出産していることは周知の事実だった。しかし、公になったことはない。
「他国の王位など誰が継いでもかまわぬ」
「ですが、御母上の意見は違うようです。すでに暗殺の指令を出された」
エリザベスの子はすべて夭逝したとされていた。その死因には当然に暗殺も含まれている。
「女王の娘の顔は知られておりません。しかし、御母上は面識があるとおっしゃる。彼女が作らせた絵姿と故意に流された偽の消息を頼りに刺客が動き始めています」
ジェームズの胸に嫌な予感がよぎる。この男は勝算のない賭けには出ない。すでにジェームズを抱き込むための罠が仕掛けられているに違いなかった。
「彼女の名は『ジェーン』。レスター伯ダドリーの庶子にして、エセックス伯デヴァルーの妻。現在は夫の側近サウサンプトン伯リズリーの所領に匿われている」
ジェームズの体から血の気が引いた。リズリーが預かっているのはジェーンなどという女ではなくアンだった。
「それは偽りだ。お前も知っているだろう」
「もちろんでございます」
レスター伯領の城で会った『ジェーン』はアン・ウェイトリー。つまり、メアリー・スチュアートの刺客はアンを追っているということになる。
ジェームズはしばらく考え込むように黙っていたが、急に話題を変えた。
「お前の一人娘は、来月結婚するそうだな」
「はい。病弱な身で妻の勤めが果たせるのか。心配は尽きませんが、せめて好いた男と娶せてやろうと」
小男は娘の恋の成就のため、持参金代わりに婿となる男の借金を肩代わりした。それが更に彼の家計を逼迫させている。
「これは祝いだ」
ジェームズは指からダイヤの指輪を引き抜く。元々この男に下賜する予定だったが、側近が偽物とすり替えたためまだ手元に残っていた。
「ありがたき幸せ。では、私からはあの鳥をお譲りしましょう。庭園からお放ちいただければ、獲物と共に良き知らせをお持ちいたします」
「それは楽しみだ」
これで連絡を取り合う算段はついた。しかし、その前にリズリーに真偽を確かめるべきだと、ジェームズにも分かっている。
「狩りの腕前を見せよ」
「仰せのままに」
小男が頷いてピーッと口笛を吹くと、旋回していた猛禽は森に向かって急降下する。捕らわれた獲物は真っ黒な一羽の鴉。マーリンの鋭い爪がその体に食い込み、真っ赤な血が黒い羽を更にどす黒く染めていた。