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35. 銀のスプーン

 礼拝を告げる教会の鐘の音が、初夏の風に乗って流れる。その日は『Trinity(三位一体) Sunday(の主日)』で、新しい命を祝うのに相応しかった。


 洗礼を受けなければ、天国を享受できない。そのため、新生児生存率が極めて低い時代、洗礼は生後すぐに行うのが通例だった。仮死状態で生まれた赤子には、助産婦がその場で水をふりかけ、簡単な言葉で洗礼を施した。天国で幸せになることを祈って。


 石造りの洗礼盤から引き揚げられた女児が、教母(ゴッド・マザー)の腕に戻される。柔らかい布が濡れそぼった彼女を暖かく包んだ。


「父と子と聖霊の御名(みな)において」


 女児の上に美しいレースが掛けられる。それはこっそりと式に立ち会うもう一人の教母からの贈り物だった。


 出産を終えたばかりの生母を休ませるため、洗礼には父親と教父母(ゴッド・ピアレンツ)が出席する。儀式が終わると、赤子は授乳のためにすぐ家に帰される。


 外で女児が親族に引き渡されたのを確認してから、ウィルはそっと教会の中に戻った。礼拝の終了を待って、黒いレースのベールを被った婦人に声をかける。


「お話はあちらで」


 婦人の視線の先は、祭壇の横にある小部屋。信者たちを見送った後、牧師がドアを開けてウィルたちを中に招き入れた。


 牧師が席を外すと、婦人は被っていたベールを取る。


「可愛い子ね」

「ジェーン様が教母に。娘は幸せ者です」


 女児には、教母が二名と教父が一名、選ばれる。彼らは名付け親となり、代父母として子の保護者や後見人となる。


「名はスザンナ。穢れなき清らかさを意味するわ」

「旧約聖書。預言者ダニエルの書からですね」


 ウィルの教養の深さに、ジェーンは改めて感心する。あのままデヴァルーに仕えていれば、近い将来に必ずその能力を存分に発揮できたはずだった。


「なぜ城勤めを辞したの? 旦那様は引き留めたのでしょう」

「夫婦で不忠を働いたのです。どうして臣下でいられましょう」


 たとえ己に非があったとしても、最愛の恋人を奪われ、主の愛人と無理やり結婚させられた。その上、職まで失ったウィルは、むしろ被害者と言ってもいい。それにもかかわらず、彼に悲壮感はなかった。


「どんな人生経験も、作家には糧になります」

「権力者に踏みにじられた弱者の人生であっても?」

「平凡な家庭を持つ祝福された農夫の人生であっても」


 実際、アグネスとウィルの家族は、この結婚を良縁だと歓迎していた。子も無事に誕生し、両家は喜びに包まれている。


「アンは、どうしていますか?」

「元気よ。穏やかに暮らしているわ」

「彼女には酷いことを。約束も果たせずに」


 ウィルの顔に浮かぶ苦渋の表情に、ジェーンの胸がキリキリと痛む。自分勝手で横暴に見える男たちにも、その心には誠意や愛情も確かに存在する。


「これを彼女に」


 ウィルが懐から取り出したのは、繊細な金細工のブローチだった。城で上演した『マクベス』を賞賛して、ジェームズ6世が与えた褒美の品。スコットランド国花アザミの意匠で、その紫にはアメジストが使われていた。


「こんな大事なものを……」

「だからこそ」


 ウィルの断固とした態度に、ジェーンは黙ってそれを受け取った。彼らには、他人が踏み込めない絆がある。


「必ず届けましょう」


 ジェーンは持っていた布で、ブローチを丁寧に包む。その布には、先ほどの洗礼式で赤子にかけられたのと同じレースがあしらわれていた。


「アグネスも子も、元気だと伝えてください」

「きっと喜ぶわ」


 初めて会った頃のように、二人が深く愛し合って互いを幸せにする。そんな結婚になることを、アンは心から願っていた。


「ウィル、あなたにお願いがあるの」

「私にできることなら」

「しばらくここを離れるわ。その間に何かあったら、ギルを助けてやって」


 ジェーンははめていた指輪を外して、ウィルに差し出した。


「もしものときは、これがあなたとギルを守る」


 中心に金で丸く雌しべが細工され、それを五枚の白金の花弁が取り囲む。その周囲にも、花弁に見立てた五つのガーネットを配置してあった。貴石を留める部分は白金細工の葉。


 王家の紋章。チューダー・ローズを象った指輪。


「ギルから出生のことは聞いている?」

「アーサー王の子孫とだけ」

「そう。この貴石は血の赤。子孫に受け継がれるべき血の証よ。ギルに大切な女性ができたら、その人に譲ろうと思っていたの」

「そんな大事なものを!」

「だからこそ」


 ジェーンの確固とした口調に、ウィルは観念してそれを受け取った。おそらく、聞いてはいけない事情がある。


「分かりました。次にお会いするまで、この指輪はお預かりします。ギル様を守るために」

「ありがとう。お願いね」


 ジェーンは巾着のバッグから小さな木の箱を取り出す。


「これはスザンナに」


 箱の中に入っていたのは、1本の銀のスプーン。柄の先は使徒(アポストル)の彫刻装飾がされていた。


「こんな高価な品を……」


 この時代、食事の招待にはスプーンを持参する。そのため、赤子の誕生祝いに贈る慣わしがあった。


「旦那様からのお祝いよ。困ったときは、これを持って訪ねて来るようにと」


 スプーンの裏に小さくエセックス伯デヴァルー家の家紋が刻印されていた。これは経済的な支援を意味する。


「感謝します。デヴァルー様のお心、確かに受け取ったとお伝えください」


 教会の外には、すでに老乳母が迎えに来ていた。馬車に乗り込む前に振り返ったジェーンに、ウィルは城でしていたように、大きく腕を前後に開いて膝と腰を折る挨拶をする。


 スザンナは無事に成人して医者と結婚。娘を産んだが、その娘には子がなかった。彼女の血はそこで絶え、「シェークスピアの長女」としてだけ、その名を残すことになる。


 彼女に贈られたスプーンは一度も使われることなく、その存在は忘れられ、やがて歴史の中に消えていった。

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― 新着の感想 ―
[一言]  あれ? この話読んでなかった⁉︎  大切な人に大切なものを、自分の分身を…ですかね。  魂は共に…みたいな。
[良い点] >「こんな大事なものを……」 >「だからこそ」 ウィルとジェーンのやり取り、素敵です。 男女間にありがちなじっとり湿った感じがなく、かといって、敵対し嫌悪したり憎み合ったりしているのでは…
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