34. 生き残りし者
解散から半世紀を得て、修道院跡はすでに廃墟の体を成している。石材は再利用されたが、崩れた壁や地深く埋められた基礎石は残されたまま。
バシッ
取壊しを免れた回廊から、折れた柱の残骸に矢を放つ者がいた。近い場所から当て、順に遠くの的を射る。
体は弓と並行に。足は肩幅に開いて、弓の内側に矢をつがえる。弦は頬まで真っ直ぐに引き、そこから矢を発射する。
バシッ
「いい腕だな」
背後からの聞き覚えある声に驚いて、リズリーはすぐに頭を下げた。
「申し訳ありません。いらしていると知らず」
「突然訪ねたのは私の方だ。顔をあげてくれ」
レスター伯ロバート・ダドリーは、慌てた様子で己の不調法を詫びる。ロンドンからお忍びで領地に赴く途中だった。
「この寒さでは、さぞお疲れでしょう。すぐ屋敷へ」
ようやく春を告げる花『スノードロップ』が顔を出したとはいえ、日の当たらない場所には雪が溶け残っている。
「いや。久しぶりに腕試しさせてくれ」
弓と矢を受け取ると、ダドリーは遠方の的を狙う。
バシッ
石柱を射た衝撃で、矢が砕け散った。
「お見事でございます」
リズリーの賛辞に、ダドリーは笑顔を向ける。
「女王の御父上は大の弓好きだった。御前試合で好印象を与えようと、コッソリ励んだものだ」
ヘンリー8世は60歳以下の男子国民全員に長弓を保持させ、定期的な訓練を義務化した。大規模な競技大会を催し、これが現代まで続く弓術の始まりだと言われている。
「愛する女の父親だ。気に入られたくてな」
返答に迷うリズリーを横目に、ダドリーは更に遠くの的に向かって弓を引く。
バシッ
「お前の働きのおかげで、全てが計画通りに運んだ。女王陛下も大変お喜びだ」
「ありがとうございます」
ジェームズ6世の恋人アン。彼の母メアリー・スチュアートに加えて、更なる人質を得たことで女王は優位に立った。
「ジェームズのことは心配いらない。夏には解放されるよう手筈を整えている」
「安心いたしました」
必ずその命を守るという約束。リズリーはそれを違えたくなかった。女王の望みと交換に、アンもいずれはジェームズ6世に引き渡せる。
「命令であの男に抱かれているのかと思っていたが。彼に情が移ったのか?」
「いえ。ダドリー様がお望みでしたら、今すぐにでも寝首を掻いてごらんにいれましょう」
リズリーはダドリーに心酔している。今は政治の表舞台には出ないが、彼は明らかに女王の頭脳だった。
「頼もしいな。お前が息子だったら、父としてどれほど誇らしいか」
「ありがたき幸せ」
リズリーには、何よりも嬉しい褒め言葉だった。両親の不仲のせいか、亡くなった実父から優しい言葉をかけられた覚えはない。
バシッ
ダドリーの矢筋は正確で、どれも的の真ん中に命中する。
「何か褒美をとらせよう。希望はないか?」
彼が願うのは、姉と慕うジェーンの幸せだけ。しかし、一つだけ気になることがあった。
「ウィリアム・シェークスピア。彼に再起の機会を与えていただけないでしょうか」
主の愛人に手を出したウィルは、当然に職を奪われた。既に新しい伝達係が雇われ、城の劇団はロンドンの『レスター伯座』に吸収されていた。
「では、芸術庇護に熱心な仲間に話しておこう。ほとぼりが冷めた頃、ウィルを勧誘するようにと」
ウィルに演劇界に返り咲くチャンスを確保でき、リズリーの胸のつかえは降りた。
「ありがとうございます。あの者の才能を、農夫で終わらせるわけにはいかない」
アンを盗み出すようウィルを焚きつけ、結婚許可証の金を用立てたのはリズリーだった。どう転んでも、彼女が決して彼のものにはならないと知りながら、その情熱を利用した形になる。
「ウィルは脚本も演出も素晴らしかったが、今回の件ではアドリブで大役をこなした。役者としての勘もいいと、しっかり宣伝しておこうじゃないか」
この約十年の後、ストレンジ卿一座がロンドンで上演した『ヘンリー6世』が、劇作家シェークスピアのデビュー作となる。彼はまた、役者として舞台にも立っていた。
バシッ
ダドリーが最後の矢を砕く。近距離の的に当たったせいで、矢じりが石の回廊まで跳ね返った。コツンと小さな音を立てる。
「リズリー、策を練るのはいい。だが、成功に溺れてはならない」
これで全てが上手くいく。そう思って安堵したリズリーに、ダドリーは敢えて忠告する。
「どれほど計っても、運に恵まれないことはある。生き残るための逃げ道を、必ず用意するんだ」
己の能力に驕って破滅する若者を、ダドリーはその目でいくらでも見てきた。リズリーにその轍を踏ませたくないと思うのは、親心のようなもの。
「私も若いころ、そうして多くの過ちを犯した。人も殺した。女も、子も。しかし、本当に望むものはこの手にできなかった」
政敵による妨害で女王を妻とすることは叶わず、生まれてすぐに他所に預けたジェーンにも、父親らしいことができたとは言えなかった。
「娘には平凡な幸せを享受してほしい。そのために私は悪となろう」
様々な知略を巡らし、冷酷に徹する女王の騎士。そんなダドリーの本音を、リズリーは確かに聞いた。愛する者のために手を汚すという覚悟も。
「こんな田舎ですが、今夜はどうかごゆるりとお寛ぎください」
「ああ、よろしく頼む」
深い森から海峡へと流れる川。その上流に位置する修道院の地所を、リズリーの祖父が購入した。彼は周囲に小さな村を作り、住宅を提供して行き場を失った僧侶や尼僧を保護したという。
修道院の大門番小屋を増改築した屋敷の所有者は、何代も後に子孫の婚家に渡ったが、貴族の邸宅として今も美しい姿を誇る。そして、そこに住む男爵家は、一人生き残ったリズリーの血を確かに受け継いでいた。