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33. 戦争の女神モーリアン

 黒いマントを被る二人の女が、雪深い森の中を足早に通り過ぎる。先を行くのは高齢の女性。続くのは若い娘。その胸に(いだ)く籠には、大きな白蕪、兎肉、それから林檎酒(サイダー)の壺が入っていた。


「年の瀬に急なことで、あなたには難儀でしたね」

「あの、私がお会いする方とは……」


 アンを訪ねてくるのは、偉大な予言者であり稀代の賢者。ケルトを束ねる大魔術師マーリンだった。しかし、修道院の院主は、アンを怖がらせないように言葉を選ぶ。


「心配はいりません。優しい魔女のお婆ちゃんとでも思っておきなさい」


 ここに来るまで、アンは魔法が実在するとは思ってもいなかった。その目で奇跡を見、その肌で魔術を感じなければ、とても信じられない。


 今も凍てつく寒さの中、女たちの周りだけ空気が暖かい。それでも、アンの震えは止まらなかった。人と神の領域が交わる森。そこに漂う霊気が、アンに畏怖の念を抱かせる。


 先方に石造りの建物が現れた。正面は柱のみで支えられ、壁がないので中の様子が窺える。人の気配はしないのに、彼女たちの到着を見計らったように明かりが灯る。

 一歩敷地に足を踏み入れると、空気がピリッと音を立てた。不遜な人間を近づけない結界。神の許しがなければ、誰も入れない場所。


 がらんどうの広間の床には塵も埃もなく、空気は澄んで清浄だった。奥の祭壇には、見上げるほどの高さの三体の女神像。

 単なる彫刻ではなく、まるで美しい女を石化したかのような姿。初めて見るその麗しき像に、アンが恐る恐る尋ねる。


「ケルトの神様ですか?」

「ええ。この神殿が祀る三柱の女神」


 左側の像の前で、院主は説明を始めた。


「こちらは馬と豊穣の神。戦車で戦場を駆け、怒りと狂気の渦を生み出す」


 赤毛の女神は真っ赤なドレスとマントに身を包み、赤い一本足の馬に引かせた戦車を操るという。


「彼女には、敵の首代わりに白蕪を供えなさい」


 アンが指示に従ったのを確認してから、今度は右側の像を見る。


「あちらは毒と死の神。戦場で恐ろしい(とき)の声をあげ、その叫びが死を予言する」


 彼女が水辺で武具の血を洗うと、その持ち主は近い内に戦死した。アーサー王を死に導いたのは、彼女が湖で清めた聖剣だと伝えられている。


(からす)となって戦場を飛び回り、死の匂いを嗅ぎつける彼女には、獣の死肉を」


 アンは籠から兎の死骸を取り出す。ついさっき絞めたばかりで、その体はまだ暖かい。


「そして、中央が彼らの長姉。予知と魔術で勝敗を決する戦争の女神」


 魂が吸い取られそうな美貌と、世界で最も美しい曲線を描く肢体。しかし、その両手には鋭くとがった二本の矛槍を持つ。


「性愛の女神でもあるぞ」


 背後から響いた声に、院主は振り返って片膝をつく。アンもそれに倣ってその場に跪いた。


「院主よ、急に呼び出してすまなかったのう」

「マーリン様、お久しゅうございます」

「うむ。堅苦しい挨拶はよろし。しばし外してもらえぬかの?」


 アンに立つよう目配せしてから、院主は神殿の入り口まで戻った。黒ずくめの老女が、アンに供え物を促す。


「さあ、中央の女神には林檎酒を。林檎は性愛の果実じゃ。どこでもそう決まっておろう?」

「旧約聖書のエデン……でしょうか」

「ご名答じゃ。ケルトの楽園もまたしかり」


 アーサー王が最期を迎えたのは、美しい林檎の島アヴァロン。そこまで彼を舟で運んだのは、『湖の乙女』に姿を変えた三人の女神。


「この女神はのう、愛した男にこの世のすべてを捧げるんじゃ。彼女に愛されし者は、栄光の未来を手にする」


 女神の誘惑に応えて一夜を共にした男は、その見返りに無限の力を与えられる。


「じゃが、その愛を逃したものは、永遠に加護を失う。残るは破滅。『クー・フーリン』の伝説を知っているかえ?」


 アンは首を横に振った。ケルトの物語については、ウィルからも聞いたことはない。


「ほっほっ。あの色男が英霊とやらで召喚されるのは、もっとずっと先の話じゃったの。やつは女神の愛を拒絶した半神半人。アイルランドの英雄よ。その勝利を悉く妨害され、ついに敗れた槍兵(ランサー)


 アンは女神の美しい顔を見上げる。慈愛しか持たない唯一神(キリスト)を信仰してきた彼女は、愛憎という人間くさい感情を持つ多神教に親近感を覚えた。


「では、この神殿は戦勝祈願のために?」

「さよう。じゃが、勝つためには女神の愛を得なくてはならぬ」

「愛、ですか?」

「かつては、女神自身がその男と交わった。だが、それにはちと問題があってのう」


 人と女神の交歓は珍しいが、男神との交配はよく聞く話だった。男子禁制の聖域は、その実が蛮族の巣窟。そこで孕まされた娘は、己の名誉を守るために『神の子』だと主張した。


「この姉妹神は三相一体。じゃが、愛する男はそれぞれ違う。好まぬ男と寝るのを(いと)い、その役目を人間の女に下した」

「人間に?」

「その者、女神の依り代にして、宿命の乙女と呼ばれる巫女。神がそれぞれ選んだ三人の男のうち、誰に加護を与えるかを決める女じゃ」

「三人の男……」


 不思議な縁だと物思いに耽るアンに、マーリンは語りかける。


「モーリアンの愛し()を託された娘よ。お前が三人の男に盲愛されたのは、養い子の宿命に引き摺られた(ゆえ)

「モーリアン?」


 産みの母の衣服に刺繍された名前。それに因んでメアリアンと名付けたと、アンは座長の女房から聞いていた。あの子の出生の手がかりはそれだけだとも。


「モーリアンとは、この女神の名。大魔女モルガン。アーサー王の異父姉『モーガン・ル・フェイ(妖女モーガン)』と呼ぶ者もおるの。その愛で男の命を操る魔性。運命の女(ファム・ファタール)じゃ」


 マーリンが指したのは、祭壇の中心に佇む神。愛によって戦の勝敗を決し、戦う男の命運を握る女。それは、三柱の主神となる『戦争と性愛の女神』だった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] うわー! ここでこれまでのピースが繋がるのですね!!! 三人の男が、なぜ三人でなければならなかったのか。 宿命の乙女が宿命の乙女たる理由。 そして、産みの母の名モーリアンが、モルガン!!…
[一言]  あ~、なんか中世の戦記っぽくなってきましたねぇ。
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