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32. クリスマス・イブ

 キッチンでは、使用人たちが晩餐の準備に忙しく立ち働いていた。その中に、この屋敷の女主人と老乳母の姿も見える。


「レーズン、オレンジの皮、牛の脂肪。羊肉の細切れは、羊飼いに(ちな)んで」


 天使にキリストの誕生を知らされた羊飼いたちは、神の子の頭上に輝くベツレヘムの星を目指す。


「賢者の贈り物に(なぞらえ)えたスパイスは、ナツメグ、シナモン、クローブ、サフラン。それから、塩と胡椒」


 占いでキリストの誕生を予言した東方の三賢者は、祝いの品を届けるために西に明るく瞬く星を追う。


「小麦粉、バター、卵黄。よく練ってから長方形に。飼い葉桶は神のゆりかご」


 キリストは馬小屋で生まれ、馬が食べる藁を入れる桶に寝かされた。


 父親の分からぬ子を宿した(マリア)。天使から『神の行い』と知らされた恋人(ヨセフ)は、父として生まれた子を愛す。キリスト降誕(ネイティビティ)と呼ばれる物語。


「さ、時計回りにかき混ぜてください。幸運を呼ぶおまじないですよ」

「いいことがあるといいわね」


 ジェーンは再び懐妊することを願いながら、パイの具を混ぜる。そんな妻の姿を夫デヴァルーが戸口から見ていた。(あるじ)に気が付いた使用人たちは、手を止めて頭を下げる。


「ジェーン、そろそろいいか?」


 振り返ったジェーンの頬は、小麦粉で汚れていた。そのあどけない笑顔に、デヴァルーの心が痛む。


「旦那様、Mince Pye(ミンス・パイ)の材料は十三なの。神と十二使徒を意味するんですって」

「面白いね。でも、君がこんなところにいるのは……」

「あら、役に立ってますわ。邪魔をするのは、いつも旦那様でしょう?」


 ジェーンは使用人たちに作業に戻るように指示を出す。デヴァルーは服が汚れるのも厭わず、パイ生地を伸ばす妻を後ろ抱きにした。


「妻の役目は、夫の世話じゃないか?」


 待降節(アドベント)に入ってから、ジェーンは夫婦の営みを避けていた。祈りには断食や菜食が求められるが、禁欲の必要はない。


「アグネスが辞めて、人手が足りないの」


 ジェーンの腹を撫でるデヴァルーの手が止まった。


「使用人が続かないのは主の責任よ。旦那様だって()()()()()()()()()()()とお思いでしょう?」


 ジェーンの言葉に、老乳母が思わず吹き出す。夫が慰みに女中に手をつけたことを、妻はやんわりと非難した。


「あの女はウィルと……」

「ウィルと結婚したのは『アン・ウェイトリー』。許可証にそう記されてますわ」


 (あるじ)の愛人でありながら、その使用人と関係を持ったアン。当然に解雇となり、ウィルとの結婚に障害はなかった。


 (あるじ)の女と寝たウィルには、不忠を問わない代わりに、正式な婚姻により女の腹の子を実子として扶養する義務が課された。不履行は40ポンドの罰金。払えなければ刑罰。その証書には、保証人の署名もある。


「そろそろ、森から『Yule Log(クリスマスの丸太)』を運ぶ時間ですわ」


 窓から日が傾くのを見て、ジェーンはそっとデヴァルーの腕を(ほど)く。


「様子を見に行かれては?」


 樫の丸太をリボンで飾り、男たちが屋敷まで運ぶ。それを暖炉に焚べて十二夜の間ずっと燃やし続けるのが、クリスマスの伝統的な厄除け行事。後に、この丸太は『ブッシュ・ド・ノエル((クリスマスの丸太))』というケーキに取って代わられる。


「では、君も一緒に」


 デヴァルーにぎゅっと手を握られ、ジェーンは戸惑う。ここ一年、定期的な閨事以外に、こんな触れ合いはなかった。


 母女王から贈られた白貂のマントを羽織り、ジェーンは森に面した裏庭に出る。真っ白な雪景色に溶けるように佇む姿は天使のようで、神々しいまでに美しい。


 森の奥から、微かに男たちの掛け声が聞こえた。二人は並んで、そちらに向けて歩き出す。


「僕を許せる?」

「なんのお話かしら」


 ジェーンが輝く笑みを浮かべる。デヴァルーが他の女を愛しても、彼女はいつも笑顔で夫を迎えた。その事実が、デヴァルーの胸をえぐる。


「他の女に胤を……」


 お腹の子の父親は分からない。アグネスはそう答えた。つまり、ジェーンに決定権が委ねられたということだった。


「そうね。じゃあ、()()・シェークスピアには十分な年金を。ウィルには養育費として、40ポンドをお渡しください」


 一人になったとしても、生まれてくる子を養えるように。離婚はできなくとも、契約不履行の罰金を払えるように。これで、ウィルとアグネスの関係は、二人の気持ち次第となる。


「それだけでいいのか?」

「もう一つ、お願いがあります」


 王家が所有する施設に隠したもう一人のアン。彼女が望み通り自由に生きられるように。


「何があっても、アンを連れ戻さないでください」

「彼女は……」

「望みが叶って幸せなはずです」


 妻の言葉にデヴァルーは長い息を漏らす。


「分かった。約束するよ」


 夫の真摯な言葉を聞いて、ジェーンはその腕にそっと寄り添う。


「旦那様、ありがとう」

「僕こそ……」


 二人の頭上には、空に腕を伸ばした様に枯れ木の枝が走る。そこには緑の球状の塊が付いていた。


「まあ、Mistletoe(ヤドリギ)だわ」


 クリスマスには『Kissing(キス) Bough(の枝)』が飾られ、その下にいる男女はキスをする。それに白い実をつけるMistletoe(ヤドリギ)が使われるのは、寄生植物という生態が借腹という神の受胎を象徴するため。


「ジェーン、キスをしても?」


 黙って頷いたジェーンを木の影に寄せて、デヴァルーはそっと優しいキスをした。


 やがて夜の(とばり)が下り、クリスマスの(イブ)が訪れる。身代わりに罰を受けて、死ぬ運命を待つ神の子。その犠牲によってのみ、愚かな人の子の罪は許されるのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] クリスマス(イヴ)らしく、キラキラとした華やかさ、白雪の幻想的な美しさがあって、とても素敵でしたー! デヴァルーから見たジェーンが、天使や聖女のように清らかなのも、嬉しい気持ちになりまし…
[一言]  うひゃあ、雅な表現だ!
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