31. 運命の歯車
「うわぁ! あったかーい!」
馬車から降り立った瞬間、メアリアンが声を上げた。すぐに靴を脱ぎ捨てて、裸足で草の上を駆ける。
もう晩秋だというのに、吹く風はまるで初夏のように爽やかだった。頭上にはリンゴがたわわに実り、足元の青々とした草を羊たちが食んでいる。
「ここで昼食にしようかね」
老乳母が声をかけた。アンは暗い馬車のドアから、外の眩しさに目を細める。
「目的地は、まだ遠いのですか?」
「いいや。でも、着いてしまえば、もう自由は効かないからね」
訳ありの母子として、国の保護施設に預けられる。ジェーンから聞いていたのはそれだけだった。そこにいる者たちは、奉仕活動や農場就労に従事することになるという。
「いい日和だ。人生の門出にはピッタリだねぇ」
老乳母の言葉に、アンは残してきた人たちを思う。ウィルとアグネスは無事に家族となり、今頃は村も屋敷も慶事にてんやわんやだろう。
「アン、本当にこれで良かったのかい?」
「はい」
ウィルの求婚を受け入れた数日後、突然ジェーンがアンを訪ねてきた。伴っていたのは老乳母だけ。誰にも知られぬよう、自ら馬を駆ってのお忍びだった。
街は収穫祭の真っ最中。城主の妻もその息子デヴァルーも視察を兼ねた見物に出かけていた。
膝を折って深く頭を下げるアンの所作に、ジェーンは柔らかい笑みを浮かべる。
「見事な作法ね。今となっては、誰もあなたが『とりかえ子』だったなんて思わないわ」
召使いだったアンがジェーンの身代わりを引き受けたのは、二年ほど前のことだった。メアリー・スチュアートとその息子スコットランド王ジェームズ6世から、女王の庶子ジェーンを隠すための秘策。
「ウィルのおかげね。女の所作まで演じられるなんて」
ジェーンがクスクスと笑う。当時、公式な舞台の女役は変声期前の少年が務めていた。劇作家としての豊富な知識と、俳優として人の特徴をすばやく掴んで演じる能力。それが認められて、ウィルはアンの家庭教師に抜擢された。
「あなたには、本当に申し訳なかったわ」
ソファーに座るようにアンを促すと、ジェーンは自分も暖炉を背にした椅子に座った。アンにデヴァルーの手がついたのは、ジェーンが城を離れたときだった。ジェームズ6世の疑惑の目から逃れるために。
「私が愚かだったの。自分で立ち向かわなければ、その人生には意味がない」
自分に都合のいい女を夫の愛人にする。そんな姑息な手段で、男の心を繋ぎとめようとしたことをジェーンは恥じる。
「アン、あなたはどうしたい?」
アンにとって、それは誰からも問われたことのない言葉だった。両親を亡くしてから、アンは流されるままに生きてきた。アンを欲した男たちは、彼女の気持ちを聞いたりはしない。
唯一愛した男の前ですら、アンは偽りの姿を晒すしかなかった。その心を隠したまま、その身すら自由にならずに。
そんなアンには、望みを持つことすら夢だった。そして、その夢すらも、もうずっと昔に捨ててしまっていた。
今、彼女の目の前に広がるのは、薄緑のリンゴが実る美しい果樹園。その耳に聞こえるのは、メアリアンの楽しそうな笑い声。
「そりゃ、生まれてくる子には、両親が揃っている方がいい」
日当たりのいい場所に、羊毛で織ったタータンチェックのブランケットを敷きながら、老乳母がアンを見上げる。
「ジェーン様も出自のせいでご苦労が絶えない。本来なら、デヴァルー殿が妻にできるお方じゃないのに……」
老乳母が悔しそうに言った。そして、バスケットから取り出したパイにナイフを突き刺し、思いっきりザクっと切り分ける。
「アグネスの望みとはいえ、あんたには理不尽だったろう。人の妻として、日の当たる場所で生きられる機会を……」
「私はウィルを愛していません。偽りを誓っていれば、神様の罰が下ったでしょう」
アグネスの事情を知って、アンは自分でこの道を選んだ。誰から強要されたわけではなく、自分でジェーンに協力したいと申し出たのだった。
妊娠すれば結婚できる。農場で初めて会ったとき、アグネスはそう言った。そして、その通りになった。決して諦めることなく、その望みを叶えたのは彼女の強さ。
「私も強くなりたいんです」
人に頼るのではなく、自分で愛する者を守れるように己の意思で生きる。それがアンの本当の望みだった。
老乳母は手にもっていたナイフを放り出し、側にあったナプキンを目に当てた。そして、ぶーっと音を出して洟をかむ。ジェーンだけではなく老乳母も、アンを人として尊重する数少ない人間の一人だった。
「アン、よくよく学ぶんだよ。これから行く場所では、全ての知識が自分の力になる。自由に生きるための」
どういう意味かとアンが尋ねようとしたとき、走り回っていたメアリアンが戻ってきた。両手には薄緑ではなく真っ赤なリンゴを持っている。
「ママ、リズリーよ! 弓でリンゴを落としてくれたのっ」
ニコニコと嬉しそうに笑うメアリアンの向こうから、見知った少年の姿が近づいてくる。その肩には矢の入った筒が掛けられ、手には弓が握られていた。
老乳母とアンはその場に膝をついて、深く頭を下げる。
「お久しぶりです。主の命にてお迎えに上がりました」
老乳母が頭を上げて立ち上がる。アンがここに来ることは、ジェーンだけが知っているはずだった。
「誰の命でしょう? アンは……」
「ここは私の所領。陛下からお預かりするものは、すべて領主の管轄下です」
「陛下の……?」
リズリーはまだ膝を折っていたアンに、紳士らしく手を差し伸べた。アンはその手を取って立ち上がる。
「あなたとメアリアンをお預かりする。どうか安心してお勤めに励まれますよう」
リズリーの笑顔に、アンはなぜか不安を感じた。そして、その直感は正しい。運命の見えない歯車が、確実に彼らの人生を支配し始めていた。