29. 大晦日の悪霊
太陽の季節が終わりを告げ、暗闇の季節が訪れる。
冬支度に入る節目となる収穫祭。村の広場には大きな篝火が燃え、人々はそれを囲んで踊り明かす。飲めや歌えや大騒ぎ。
「あら、あの仮面をかぶった子たちは?」
庭で秋バラを摘んでいたジェーンは、手を止めて別棟に目を向ける。大きなバスケットを抱えた兄妹が、厨のドアを叩いていた。
「収穫祭用の食べ物を集めているんでしょう」
老乳母が曲がった腰を伸ばして、拳でトントンと叩く。ジェーンの養育全般を引き受けた女傑にも、老いの影が差し始めていた。
「ああ、今夜は『サウィン祭』ね。秋の収穫を祝って悪霊を追い払う」
ケルト信仰ドルイド教では、11月1日が新年になる。10月31日は大晦日。霊界の「門」が開き、死者の霊が親族の元に戻ってくると信じられていた。
「ただの迷信ですよ。子供をさらう悪霊なんて、国教会の教義に反します」
先祖の魂に紛れて、作物を荒らし子どもをさらう悪い妖精や悪霊も、この世に入ってくる。彼らから身を守るため、仮面や仮装をして仲間に見せかけ、人々は魔除けの焚火のそばに集う。
「明日は『万聖節』。今夜はその前夜祭よ。教義上の問題はないわ」
サウィン祭はハロウィンの起源とされるケルトの伝承行事。元は5月13日だった万聖節が11月1日に移動したのは、キリスト教がケルト信仰に融合した結果だった。
「どっちにしろ、子どもに物乞いのような真似をさせるなど……」
「大人たちはお祭りの準備に忙しいのよ」
広場に火が焚かれると、村人たちは家中の火を消すことになっていた。そして、燃え上がる炎に贄を投げ入れ、邪悪なものを追い払う。
翌朝には熾火が配られ、各家が炉床にこの魔除けの種火を灯す。この先の1年、家中に災いが訪れることがないように願って。
「ジェーン様は優しすぎますよ」
勝手口から出てきた女中を見て、老乳母は眉をひそめる。子どもたちに大きな白い蕪を渡しているのは、農家の娘アグネス・ハサウェイ。
「彼女は働き者よ。旦那様も気に入っているわ」
「そりゃそうでしょうよ」
老乳母の憤りに、ジェーンは苦笑する。アグネスはジェーンの夫デヴァルーの隠し女。当初は数週間に一回だった性の奉仕も、今では頻度が上がっていた。
「申し訳ないと思っているのよ。旦那様のせいで婚期を逃して……」
アグネスは元恋人ウィルとの復縁を望んでいる。しかし、二人が元の鞘に納まることはなかった。ウィルが彼女を抱くのは月に1回。アン・ウェイトリーに求婚を断わられた面会日の夜だけ。
「ですが、あの娘は……」
「分かっているわ」
子どもたちが去ったあと、アグネスは物陰に隠れて吐いていた。子を産んだことのある女なら、それが何を意味するか分かる。
「今夜にでも話すわ。使用人たちはお祭りに気を取られる。いい機会よ」
「デヴァルー殿には……」
「まだ何も。旦那様が認知を拒んだら、生まれて来る子が不憫でしょう。庶子にもそれなりの処遇を考えてあげなくちゃ」
ジェーンがアグネスとの関係を知っていることに、デヴァルーは気が付いていない。妊娠が発覚すれば、その事実の隠蔽のために彼女を放逐する可能性があった。
「ジェーン様は甘すぎます。貴方様の御母上は……」
「しっ。私の母は公には父の愛人となることもできない。私たちと同じ無力な女よ」
男たちの思惑に翻弄されるのは悲しい女の性。ならば、せめて女同士は敵であってはならないと、ジェーンは常々考えていた。
そして、女であるが故にその心を蝕む嫉妬や嫌悪の感情には、目を向けないよう努めてきた。
たくさんの供物を持たせて、使用人たちを収穫祭に送り出す。案の定、気分が優れないアグネスは、女中部屋に一人残っていた。周囲もそろそろ、彼女の体の異変に気付き始めている。
「奥様! どうしてこんなところに?」
「ちょっと聞きたいことがあるの」
そう言ってジェーンが女中部屋ドアを閉めると、アグネスはその場に腰を落として頭を下げる。見張り役の老乳母は、ドアの外に待機していた。
「楽にしてちょうだい。お腹の赤ちゃんに障るわ」
驚いたように見上げるアグネスの両手を、ジェーンはそっと握って立たせた。そして、側にある粗末なベッドに一緒に座るよう促す。
「奥様の隣になんて……」
「今は主従関係を忘れましょう。私たちは同じ女。神の前では平等よ」
ジェーンの迫力と己の具合の悪さもあって、アグネスもそれ以上は抵抗しなかった。言われた通りにベッドに腰を下ろす。
「教えてほしいの。お腹の子の父親は誰? もしデヴァルー様なら……」
「違います! この子の父親はウィル。ウィリアム・シェークスピアです」
「それは本当? 私に気遣いは無用よ。子は天からの授かりもの。神の采配なの。父親にもその子を育てる義務があるわ」
男たちにいいようにされ、捨てられる女たち。ジェーンが正妻の地位にいるのは、その出自と婚姻誓約のおかげだった。
しかし、そんなものは愛の前では意味がない。夫デヴァルーの心は、すでに愛人アンの元に移っていた。それこそが神が与えた平等の証。
「もう一度聞くわ。その子の父親は?」
アグネスの答えを聞くと、ジェーンは黙って頷いた。そして、俯くアグネスをそっと抱きしめる。
「心配しなくていいわ。子の父親には、ちゃんとその責任を果たしてもらいます」
廊下では、老乳母が心配そうな顔をして待っていた。それとは対照的に、女中部屋から出てきたジェーンの目には、揺るぎない強い意志の光が宿っている。
「お城へ行くわ。支度をお願いね」
「今から……で、ございますか?」
「ええ。収穫祭を見物していきましょう」
広場の大きな篝火に集る村人たち。その横を馬に乗った黒いマントの影が走りすぎる。その姿は奇しくも、魔除けの火に追い払われる悪霊とその下僕のように見えたのだった。