28. 結婚許可証
「ウィリアム・シェークスピアとアン・ウェイトリーの結婚を許可する」
望んだ裁定を受けて、ウィルは胸をなでおろす。その隣では緊張した面持ちのアンが、司法役人席を見上げていた。
ストラットフォード・アポン・エイボンの西40kmに位置するウスターは、大聖堂を中心に栄えた街だった。結婚許可を求めてわざわざ隣街まで出向いたのは、邪魔が入るのを恐れたから。
乳母であるアンが城から出られるのは、娘メアリアンとの面会日だけだった。彼女の送迎手配はウィルの役目。正妻ジェーンの前では、デヴァルーも愛人への執着を隠す。情が浅いと見せかけるため、敢えて元恋人のウィルにアンとの同行を許していたのだった。
月に一度のこの機会を利用して、ウィルはアンに求婚を続けていた。しかし、肝心のアンからは色良い返事はない。拒絶の理由は数え切れないほどあった。
領主の息子デヴァルーの愛人を略奪すれば、使用人のウィルがどんな目に遭うか分からない。恩義あるジェーンに無断で、勝手な行動を取ることはできない。特に、彼女がアグネスとウィルの復縁を望んでいる以上、その意向に逆らう気はない。
しかし、それは全て口実で、本当の理由はアン自身がウィルを愛していないからだった。
絶望的に見えた展開に、思わぬ天の助けが下りたのはその夏の終わり。スコットランドでジェームズ6世が誘拐された事件だった。アンにそれを伝えられたのは、翌月の面会日。事件からすでに1ヶ月を経過していた。
「ジェームズ6世は、いずれ殺される」
アンは動揺を隠すのに苦労していた。事件の詳細はまだ不明だったが、ウィルはそれを上手く利用する。
「今も獄中で、酷い扱いを受けているらしい」
アンの手が震えている。リヴリーの話は本当だったと、ウィルは確信した。アンはジェームズ6世の女。
「城の客人、チャールズ様を覚えているか?」
アンは真っ青な顔で頷く。チャールズ・ジェームズ・スチュアートは、ジェーム6世の本名だった。
「あれはスコットランド国王なんだ」
アンは何も言わない。知っていたことを悟られないためだったが、ウィルには通用しなかった。
「僕の演劇を高く評価してくれた」
アンはいつになく熱心に、ウィルの話を聞いていた。求婚への対応とは明らかに違う。
「彼の国でも上演できるよう、取り計らってくれてるんだ」
アンの表情に微かな疑念が浮かぶ。地方の一介の劇作家に、それほど都合のいい話があるはずがない。
「その気になったら、これを見せて参じろと」
アンが目を見張る。ウィルが取り出したブローチには見覚えがあった。国王のみが身につけられる紋章。
「おかげで僕は劇団の支配人にまで昇格した」
アンは懐かしさに、思わずブローチに手を伸ばす。スコットランド国花アザミをかたどったアメジストは、ジェームズ6世がいつも身につけていたものだった。
「今こそ、その恩に報いたい」
アンの手が止まる。見上げるアンの瞳が微かに潤んでいるのを、ウィルは見逃さなかった。
「不遇な国王をお慰めする」
アンの目に光が灯った。別の男への深い情を見せつけられ、ウィルの心は穏やかではない。
「いざとなったら盾となって、お命を救いたいんだ」
アンの表情に明るさが戻る。ウィルの安全よりもジェームズ6世の命を心配しているアンに、ウィルは少なからず落胆した。
「危険な仕事になると思う」
アンは納得したように真摯に頷いた。他の男を気遣うアンへの憤りを隠して、ウィルは役者の仮面をかぶる。
「家族の支えがなければ、断念するしかない」
アンの肩がピクッと揺れた。彼女の過去を知っていると気づかれないよう、ウィルは慎重に話を進める。
「一緒に来てくれくれないか」
子まで成した初めての男を、アンは今も愛してると思われた。彼を救うためにその身を差し出すだろうと、ウィルはその可能性に賭けたのだった。
「でも、アグネス様が……」
「彼女は決してこの地を離れない」
ウィルのこの言葉は、後に証明されることになる。アグネス・ハサウェイは生涯、生まれ故郷を離れることはなかった。
アンはその場での即答を控えたが、翌10月の面会日にはウィルの求婚を受け入れる。婚約を反故にできないよう、ウィルは躊躇するアンを説得して、その場で慌ただしく夫婦の契りを結んだ。
『……僕への恨みを捨て去り、「貴方のことは嫌いじゃない」と言って、アンは僕の人生を救ってくれた』*
そのときの彼女を讃えてウィルが詠んだ叙情詩145番は、シェークスピアの初期作品として後世へと語り継がれていくことになる。
そして、翌月の面会日。帰路に遠回りをして、なんとか無事に隣街ウスターにたどり着いた。奇しくも、かつてこの街の城門で、戦場で勝利したヘンリー七世が「予言の子」という詩で歓迎されたという。
妊娠可能性を申請の理由として、この婚姻に教会法上の障害がないという宣誓をする。
近親者でもなければ重婚の疑いもない。既に肉体関係もある。許可証さえあれば、明日にでも結婚できる。司教がいるウスター大聖堂の国教会裁判所では、どの教会でも結婚できる「特別許可証」が発行されていた。
「教会法の特例により、結婚禁止令の実施を3回から1回に減する」
通常は結婚式前の三週にわたって、日曜に教会で結婚を公表し、異議申し立てがないかを確認する必要があった。
この制度は現代にも続く。結婚を望む男女または同性は、三回の日曜日を含む29日前までに登記所に結婚予告を掲示し、異議申し立てがないことを証明する必要がある。
運よく明日は日曜。教会に出向いて結婚を公表し、その場ですぐに式を挙げればいい。秘密裡にことを運べば、異議を唱えられるような事態にならない。
そう判断したウィルは、そのことを生涯後悔することになったのだった。
*……'I hate', from hate away she threw, And(=Anne) saved my life, saying 'not you'.




