23. 真っ赤な林檎
まだ日が高いにも関わらず、鬱蒼とした森の中の荒屋は妖しい雰囲気を醸し出していた。
煙突から漂う煙には、すえた血のような甘酸っぱい匂いが微かに混じっている。台所のかまどには大きな鉄の鍋がかけられ、真っ赤な液体がグラグラと煮立っていた。
その不気味な鍋に、骨ばったシワシワの手が、次々とりんごを投げ込んでいく。
皮を剥かれた黄緑のりんごは、鍋の中で毒々しい赤に染まる。その様子は恐ろしい伝染病に赤黒く爛れていく、人間の皮膚のようだった。
「のう、お前さんや。この世で一番美しいのは誰かえ?」
大きな木の匙で鍋をかき混ぜながら、黒いマントを被った老婆が、嗄れた声で問いかける。聞き慣れた質問に、問われた方はふぅっと息ついてから、いつもと同じ返答をする。
「……さあ。そんなもの知りません」
その言葉を聞いて、老婆もため息を漏らした。匙を鍋に放り込んで、頭からフードを外す。
「ゲイリスは、相変わらずノリが悪いのう」
「おばば様は、いつも通り悪ノリが過ぎますね」
食卓でお茶の準備をしているのは、黒ずくめの衣装を纏った妙齢の女性。どこから現れたのか、真っ黒な毛並みのネコが、彼女の側の椅子に飛び乗った。
「この家の飼い猫かえ?」
「はい。私が引き取りました」
故郷に帰ったはずの弟子ゲイリスと、偉大な魔術師の師匠マーリン。そして黒猫。
「おばば様は、なぜここへ?」
「そりゃ、お前さんに会いに来たんじゃよ」
師弟関係を解消した二人が、こうして『罪喰い人』の家で再会したのは、もちろん偶然ではかった。
「いいリンゴが手に入ったから、食べさせてやろうと思うての」
鍋の中の大量のりんごは、既に赤く柔らかくなっていた。
「落ち込んだときは、甘いものがええんじゃ。元気でるぞぃ」
拳を握ってそう力説するマーリンの言葉に、ゲイリスの表情が和らぐ。弟子ではなくなっても、元師匠への情が失われたわけではない。
「私は大丈夫です」
そうやって強がりを言うのがゲイリスだった。しかし、彼女の本音は必ずマーリンに見透かされてしまう。
「ここに来る途中、辻に真新しい墓標を見た。この家の主のもんじゃろ。お前さんの知り合いかえ?」
ゲイリスは黙って頷いた。マーリンに隠しごとをしても無駄だった。賢者としての目には、過去も未来も全てが見えている。
「見どころがあったので、薬草の知識と治療薬の作り方を教えたんですが……」
「魔女として疎まれたか」
「故郷を追われて、こんなところで『罪喰い』を。噂を頼りにようやく所在が掴めたんですが、訪ねたときにはもう……」
「遅かったんじゃな」
食器棚の前に置かれた箱とその周辺には、空になった薬の瓶が転がっていた。マーリンの家に残されたゲイリスの治療薬と同じものだった。
「なぜ辻に? 病で死んだなら、教会に葬ることもできたじゃろ」
「本人の希望です。多くの者たちの罪を背負う『罪喰い人』として、辻に葬られた者たちと同じ扱いを受けたいと」
旧約聖書「出エジプト記」のモーゼの十戒。その第六の戒め「汝殺すなかれ」には、己を殺す行為の禁止も含まれていた。当時、自死は法律で大罪とされ、キリスト教式の葬儀と埋葬が禁止されただけではなく、土地や財産も没収される。
「高尚な心がけじゃな。惜しい者を亡くしたのぅ」
人々に忌避される『罪喰い人』とは、他人の罪を肩代わりして、それを持って死出の旅に立つ。その役割は魔女ではなく、むしろ神の姿にこそ近い。
「その言葉、心に染みます。何よりの弔問」
ゲイリスがそう言ったとき、風に乗って微かに鐘の音が聞こえた。教区内で誰か逝くと、その死を知らせるために教会の鐘が鳴り響く。
「あの娘のところじゃな。お前さんが『罪喰い』を引き受けた」
「これも縁ですから」
「不思議な縁だがのぅ」
マーリンが喉をくすぐると、黒猫はゴロゴロと気持ちよさそうな音を鳴らした。故人を悼む者はこの家に揃っている。後はエールを飲んで賛美歌を唱えればいいだけ。
「今夜は弔いだのぅ。さ、まずは煮リンゴの味を見てくれりゃ」
マーリンは大鍋を火から下ろす。色を付けるためにラズベリーを使った煮リンゴからは、甘酸っぱい香りが立っていた。しかし、鍋いっぱいのりんごは、二人では到底食べ切れる量ではない。
「おばば様、どこかに行く途中じゃないんですか? このリンゴは手土産でしょう」
「相変わらず鋭いのぉ。女神の娘を訪ねようと思ってな」
「では、お城に?」
「ほう。知っとったか」
「あの子は我らに縁ある者。母親はケルト神殿の巫女です」
ゲイリスと共にその出生を見届け、旅芸人に託したあの赤子こそ、ケルトの女神に選ばれし宿命の乙女。次の誕生日が来れば、もう3歳になる。
「きっと喜ばれましょう。子どもは甘いものが好きですからね」
「いや、これはやらんよ。甘味は虫歯の元じゃ」
「は? では、なぜ甘く煮たりしたんですか」
「このリンゴは出先から持ち帰った新種でのう。火を通さないと食べられんのじゃ」
調理用のりんご「ブラムリー」は、19世紀に王立園芸協会の品評会で最優秀賞を受賞した品種だった。
糖分が少なく酸味が強いが、火を通すとすぐに柔らかくなる。加熱しても香りが飛ばず風味豊かなため、現代では絶大な人気を誇っている。
「それに継母と言えば、真っ赤な毒リンゴと相場は決まっちょるじゃろが。こりゃ、ただの青リンゴじゃ」
「......それ、なんのお話ですか?」
また、おばば様の悪い癖が始まった。そう悟って呆れ顔をするゲイリスに向かって、マーリンはおもちゃに夢中な子どものような目をして、楽しそうに話し出す。
「冬の読書に向けてのぅ、今、童話に凝ってるんじゃよ。古今東西、あらゆる時代のな」
マーリンはまた趣味で時空を超えているらしい。なぜこんなふざけた魔術師が賢者にまでなれたのか。ゲイリスには神の真意が理解できない。
マーリンとの師弟関係を解消したのは英断だったと、ゲイリスは改めてそう確信したのだった。