22. 罪喰い人
過ぎ去りし夏に、一人の初老の男がやがて迎えるだろう己の死と、静かに向き合っていた。彼の耳に届くのは、娘が立てる物音と家畜の鳴き声だけ。
彼はイギリス中部ストラトフォード・アポン・エイヴォンの西に位置するショッタリー村の独立自営農民。その農場は後に、偉大な劇作家の妻の実家として、世界的に有名な観光地として賑わうことになる。
「アグネス、牧師を呼んでくれ。告解を望む……」
冬から寝付いた父親の言葉に、娘のアグネスはいよいよその時がきたことを悟る。冷静で厳格な父親は現実主義者で、神の慈悲に縋ることなど元気ならば考えない人間だった。
良き魂は天国へ、悪しき魂は地獄へ行く。しかし、天国に入る前には、罪を清めるために煉獄と呼ばれる苦しみの地に留まらなければならない。
死ぬ前に罪を告白し神の赦しを請うことで、煉獄での時間を減らすことができると人々は信じていた。
「すぐに牧師様を連れてくるから。ちょっとだけ待ってて」
プロテスタントが煉獄の存在を否定しているにも関わらず、人々は罪を告白せずに死ぬことを恐れる。
病人に油を注いで神の赦しを得る儀式「終油の秘跡」はすでに廃止されていたが、牧師は依然として死にゆく人を訪ねた。神の血と肉としてパンとワインを与える「聖体拝領」を行い、罪を悔い改めるよう促すために。
「義姉さん、後のことをお願い。私は牧師様を呼びに行くわ」
「そうかい。『罪喰い』の手配も頼んだよ」
アグネスは了解したとばかりに頷く。このときのために、すでに必要な費用は準備できていた。
前庭で鶏に餌を与えていた兄嫁は、手を止めてキッチンに走る。パンとワイン、そしてエールの貯蔵量を確認し、この先に起こる事態の備えは十分だと分かってホッと息を吐いた。
死人の胸にパンを置き、生前の罪を浸透させる。
そのパンには6ペンスとエール樽が添えられ、村はずれに住む『罪喰い』を生業にする者に渡される。
死者への供え物を『罪喰い人』が食べることで、故人の罪が彼らの体に取り込まれ、浄められた魂が無事に天国に入れると信じられていたのだ。
教会までは約2㎞の道のり。歩けば往復で1時間はかかる。帰路から少し外れてはいるが、『罪喰い人』のところに寄るのは合理的な経路だった。
アグネスが向かったのは、いずれ夫ウィリアム・シェイクスピアと共に葬られることになるホーリー・トリニティ教会。牧師は所用で不在だったため、牧師館に伝言を残す。
「ハサウェイ嬢、主人はすぐに戻ります。お待ちいただければ、ショッタリーまで馬車でお送りいたしますよ」
お布施という名の葬儀代を手渡すと、牧師の妻はアグネスに大層親切な態度をとった。
「いえ、すぐに失礼します。『外れ村』に寄らなくてはいけないので」
アグネスは『外れ村』という通称を使って、『罪喰い』の依頼に行くことをほのめかす。
教会の教義からすれば『罪喰い』は迷信の類。牧師の妻には、その存在を肯定することはできなかった。しかし、古くからの風習を軽視することは、地域社会の一員として許されない。
「では、これをお持ちください。神のご加護を」
牧師の妻はアグネスに、小さな香袋に入った没薬と乳香を手渡した。
東方の三賢者がキリストに贈った品。没薬は身体的苦痛を和らげる効果があり、乳香は教会の儀式で必ず焚かれるものだ。当時、香料は非常に高価だったが、魔除けとしての効果があると信じられていた。
死者の罪を引き受ける『罪喰い人』は人々に恐れられ、孤立した場所での生活を強いられていた。彼らの行いは魔女や黒魔術師の仕事とされ、その目を見たものは不運が降りかかると伝えられる。
そんな場所に一人で赴くアグネスに対する、牧師の妻の気遣いだった。
「ありがとうございます。父にはもう時間がありません。牧師様になるべく早くとお伝えください」
牧師の妻は心得たというように、奉公人を呼んで夫を呼びに行かせる。それを確認すると、アグネスはすぐに『外れ村』へと足を向けた。
暗い森の中に住む『罪喰い人』のところに行くためには、いくつもの辻を通り抜けなくてはならない。十字路の真ん中に埋められた、不気味な墓標や棺の蓋が異様なほど目に付く。
「また新しい墓が。神のご慈悲を!」
不安な気持ちを払拭するように、アグネスは大きな声で祈りを口にする。
その事実はどうあれ、人々は自死を選んだ者は幽霊となって戻ると信じていた。そのため、その遺体の心臓には杭が刺され、人がその上を通る交差点に埋められる。そうすることで、彼らの幽霊が彷徨い歩くことを防げるとされていたのだった。
この習慣は19世紀初頭まで続き、今でも昔のまま手付かずで残る田舎の道で、その痕跡を見ることができる。そして、そういう地域にはヒースに覆われた荒野が広がり、そこに棲むという魔女の伝説が残っていた。
「おや、死人が出たのかい?」
深い森の細道の先に『罪喰い人』の家が目に入った瞬間、背後から老婆にしわがれた声で話かけられた。アグネスは悲鳴をあげて飛び上がる。
森に入ってからは、誰にも会うことはなかった。むしろむやみに立ち入ることを禁忌とされる場所では、アグネスのこの反応は当然だった。
「ばあさん! 脅かさないでよ。あんたも『罪喰い』の仕事を依頼に来たの?」
振り返ったアグネスが見たのは、青りんごをたくさんバスケットに詰めた農民の老婆。
「いいや。リンゴを持って来たんじゃよ」
青りんごは晩夏のこの時期が収穫期。出荷できない半端ものを家々を訪ねて売り歩くのは、農家の老人と子どもの仕事になる。
「へえ。もうそんな時期か。秋が来るのね」
弱々しくなった木漏れ日を見上げて、アグネスは目を細めたのだった。