21. 女王の食卓
冬になると、女王の食卓に野生動物の肉が並ぶことがある。英語ではGame、フランス語ではジビエと呼ばれる食材。鹿や猪、雉や野鳥のローストやパイ包みは、フランスの葡萄酒とよく合った。
柔らかく新鮮な肉を求めるなら、狩りで仕留めるしかない。女王の元には貴族からの献上品や、狩人から仕入れる獲物が集められていた。
冬に備えて肥えた家畜は晩秋に潰す。その肉は塩漬けにされたり、暖炉の煙で燻製にされたりして、保存食となっていた。魚も同様だ。塩漬けのタラやニシン、鯉も天日で干されて石のように硬い。
それらをコトコトと煮て柔らかくするのだが、やはり塩気の強さに風味は落ちてしまう。
そのため、玉葱、エンドウ豆、ほうれん草、カブ、ニラ、人参など野菜と一緒に煮込まれて、スープやポタージュ、ホットポットという鍋物になる。
つまり、通常は汁物ばかりの変わり映えのしない食事が続くことが多かった。
「この肉はどこからの進物か」
女王は雁のパイに舌鼓を打つ。北極諸島で繁殖する渡り鳥は、欧州大陸で越冬する時期だった。
「ホラント州でございます」
「ネーデルランド連邦王国か」
給仕の返答に、女王は食事の手を止める。
ホラントを中心とするネーデルランド北部7州は現在のオランダに当たる。先の夏には、スペイン・ハプスブルク家からの独立を宣言をしていた。
女王の義兄フィリッぺ2世がカソリックを強要したため、ネーデルランド北部は新教徒の反乱を発端にした宗教戦争の真っ只中。イギリスの支援を取り付けようと、しきりに贈り物を持った使者が来る。
スペインに侮られないためには、この新興国家ともある程度の付き合いは必要だった。
「各国を渡る野鳥には、国境も宗教もありません。その命を無駄にしないためにも、きちんとお召し上がりください」
テーブルの反対側で、レスター伯ダドリーが女王に食事の続行を促す。
生野菜をほとんど取らない時代、肉からビタミンや鉄分を摂ることは重要だった。特に日光が差さない冬は、食事で健康を維持するしかない。
「この世は無駄になる命ばかり。なんのための宗教か」
「魂の救済と、神の国への引導」
「建前であろう。ホラントの新教カルヴァン派は、現世の利益追求こそを神の使命と説いている」
「本音では、旧教カソリックも似たようなものでしょう。宗教など富の利権争いに利用されるだけの代物」
女王もダドリーも、英国国教会すなわちプロテスタントの教義に従っている。しかし、国内貴族のカソリック勢力はまだ根強く、油断ならない状況だった。
彼らが力を得てフィリッぺ2世の縁に縋れば、イギリスはスペインの属国に組み込まれる。台頭するフランスに対する北からの抑えに、捨て駒として利用されるのだ。
カソリック教義を共にする国であっても、所詮は国益が優先する。宗教とはもはや信念などではなかった。
「スコットランドの動きはどうか」
「目立ったものはありません」
フランス宮廷と近しいスコットランド王家。その国内は、まだカソリック派に勢いがある。二国が手を結び、宗教を理由に北と南からイギリスに侵入してくれば、スペインもここぞとばかりに乗り込んで来るだろう。
イギリスに後継者の座をチラつかされ、母親を人質に取られていることで、ジェームズ6世がプロテスタントに寛容なことは国で黙認されていた。彼が王としてカソリック派を抑えるには、イギリス女王の後ろ盾は必須だった。
「ジェームズは相変わらずか」
「はい。寵臣政治に国内の不満は高まるばかり」
16歳という年齢は、統治者の自覚を持つには若すぎる。ジェームズ6世はフランス帰りの美男子に世襲爵位を与えて重用し、プロテスタントの摂政を断頭台に送ったばかりだった。
このカソリック派を助長させ、プロテスタントを煽る動きは、やがてジェームズ6世の誘拐・軟禁事件へと歴史を動かすことになる。
「ジェーンの身代わりを務めている娘。本当にジェームズの女なのか?」
「人を使って調べたところ、確かにオックスフォードで私生児を死産しておりました」
ジェームズ6世がジェーンの周囲を嗅ぎ回っていることは、爵位継承の挨拶に来たリズリーから報告されていた。その理由が初恋の女となれば、その執着が強いほど利用価値がある。
「その娘、メアリー・スチュアートよりも役に立つやもしれぬな」
女王の言葉に、今度はダドリーの手が止まる。アンは見目麗しいが弱々しく、王家の駒として利用できるほど賢くもない。
「あの娘はただ善良で素直なだけ。女王の間者として動く器量はございません」
神妙な顔でそう訴えるダドリーに、女王は揶揄うような笑みを浮かべる。
「女の真価は、女にしか見えぬもの。お前にそう言わせたのも、その娘の力の証」
それが無意識であろうと意図的であろうと、男を盾とできる女の魔性は都合がいい。逆境に追い込めば追い込むだけ、男たちがその女を救おうと躍起になって剣を振るうのだ。
「ジェームズの男色を覆したほどの娘。デヴァルーの側に置くのは、ジェーンのためにならぬ」
娘婿のアンへの心酔ぶりを目の当たりにしているダドリーは、女王の慧眼に畏れを抱く。
しかし、これは娘を思う母性というよりは、女性として己の障害となる存在を嗅ぎ分ける能力だった。男の愛を略奪し得る女か否か。男であるダドリーには見抜くことができない類いの、女だけが持つ野生の勘。
「では、機を見て適当な男に嫁がせましょう」
「その女は切り札。婚姻の人選には心せよ」
「御意」
女王は葡萄酒を注ごうとする給仕を遮り、自国産の林檎酒を所望する。林檎や梨を発酵させて作るciderはフランスではシードルと呼ばれる低アルコール果実酒。
この秋に収穫された林檎で作ったものが、ちょうど熟成されて飲み頃だった。地下貯蔵庫に天然冷気で冷やされ、暖炉の熱気と温かい食事に火照った体を染み入るように潤す。
「今宵はウォルターを閨に。宿直にはベスを付けよ」
女王の指示に、侍女たちが色めき立った。
ウォルター・ローリーは長身の美男子。傭兵として従軍したアイルランドの反乱鎮圧で軍功を認められ、最近寵臣に取り立てられた男だった。彼が北アメリカ大陸に遠征するのは、この数年後の話となる。
女王の侍女ベスが、彼の夜の相手を務めていた。その年齢差は11歳。手慣れた男の執拗な愛撫と濃い行為に、若いベスはすっかり溺れていた。二人の逢瀬は若い女官たちの好奇の的で、何人もが覗き窓からその様子を眺めては、自慰の妄想に利用していた。
「今夜は若さとの勝負。酔っては戦えぬ」
女王の意見にダドリーは異議があったが、黙ってワインをサイダーに切り替えた。
彼にはまだまだ、若者に負けない自信がある。男としての体力と腎力こそが、この国で最も高貴な女の心と体を開くための重要な鍵だった。