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20. サウサンプトン伯ヘンリー・リズリー

挿絵(By みてみん)

表紙作成:楠 結衣様


 約2年振りにリズリーはロンドンに戻った。父親の伯爵が亡くなり、正式に爵位を継ぐために。それと同時に、ここ数年は会うことを父親に禁じられていた母親を訪ねるという目的があった。


 リズリーの母親は13歳でサウサンプトン伯に嫁ぎ、15歳でリズリーの姉を、20歳でリズリーを産んだ。早世した幼子もいたものの、夫婦仲は良好で愛情深い家庭だった。


 そんな家族に亀裂が入り始めたのは、リズリーが物心ついた頃だった。


「母には男がいたんだ」


 女王から提供された住居の窓から、リズリーは庭園の向こうにある果樹園を見渡す。


 後にサボイ・ホテルが建築され、建物がひしめき合う地域だが、この時代はまだ広い敷地を持つ貴族の屋敷ばかりだった。女王の重臣バーリー男爵の持ち物である邸宅は広大で、リズリーの他にも多くの食客を抱えていた。


「相手は一般人。気がついた父が、その男の出入りを差し止めにした」


 リズリーの母は、その男に会うことを禁じられた。しかし、父親の怒りは収まることなく、夫婦仲は悪化していったのだった。


「当然だろう? 父が許せるはずがない」


 そして、つい数年前、別れたはずの男と一緒にいるのを見咎められ、母親は厳重な監視付きで別の地所に移された。


「父は死ぬまで、母に会わなかった。僕も母から遠ざける目的で、レスター伯家に奉公に出されたんだ」


 同じ伯爵家の嫡男とはいえ、まだ幼年だったリズリーは、伝言係(メッセンジャー)としての役目を賜った。彼を弟分として可愛がってくれたのは、レスター伯の娘ジェーン。


「実家とは違って、あの家は優しさに溢れていた」


 たとえそれが己には手の届かないものであっても、リズリーはあの幸せな光景に憧れていた。


「ウィル、頼まれてくれ」


 リズリーのロンドン行きには、ウィルが同行している。アンの屋敷から、彼を追い出すためのデヴァルーの策略。正妻のジェーンを蔑ろにすることはないが、デヴァルーは明らかにアンに夢中だった。


「なるべく早く、アンを連れてレスター領を出てほしい」

「それは……」

「お前、アンが好きなんだろう」


 その見解に間違いはない。ただ、ウィルが言葉を尽くして愛を語っても、彼女から同じ思いを返されることはなかった。二人はずっと師弟関係のまま。


「彼女は旦那様の想い人です」

「そして、ジェームズ6世の恋人」


 リズリーの言葉に、ウィルが訝しげな顔をする。それはそうだろう。これはジェームズ6世お気に入りのリズリーにしか知りえない秘密だった。


「アンはオックスフォードでジェームズ6世に見染められたんだ。メアリアンは彼の子らしい」


 そんなはずはない。ウィルは農場の娘アグネスから、アンの子は死んだと聞いていた。だから、座長の孫メアリアンの乳母として雇われたと。

 だが、死んだのは誰の子なのかは知らない。座長の女房はアンを息子の嫁だと紹介した。誰がどこで嘘をついているかなど、判断のしようもない。


「お前の脚本に、女王陛下は興味を示している。いずれレスター伯座で公演されれば、ロンドンで名が売れる」


 そうなれば、アン一人を養うくらいはできる。リズリーはそう言っているのだ。


「それとも、デヴァルー殿に寝盗られた女には、もう興味が失せたか」


 元々、アンはウィルのものではなかった。彼女と愛を交わしたこともない。そうやって大切にしすぎたせいで、横からかっさらわれるという事態になったのだ。


「そんなことはありません」

「だろうな。ジェームズ6世まで虜にした女だ。手に入れれば、平民のお前には誉れだろう」


 母親の相手もサウサンプトン伯爵夫人という肩書きを愛したに違いない。それに対する鬱屈した気持ちが、リズリーにこう言わせていると、ウィルは気づいていた。


 普段のリズリーなら、こんな風に人を貶めるようなことは言わない。貴族には珍しく、身分を気にしない質だということは、これまで共に仕事をしていれば分かる。


「分かりました。では、機を見て」


 リズリーはウィルの答えに満足した。これでジェーンの幸福を邪魔するものはいなくなる。


 しかし、物事はそんな簡単には、思い通りにならない。禁じられたにも関わらず、彼の母親が例の男と会っていたのと同じように。


「そろそろ時間だ。母に会いに行く」


 母子の再会は、期待されたほど感動的なものではなかった。実際、母が女であることを見せられるのは、子にとって嬉しいものではない。


 リズリーが女を軽蔑し、おとなしくジェームズ6世の閨に寵童として侍ったのも、この母への不信感があればこそだった。

 そう言う意味でも、リズリーとジェームズ6世には分かり合えるものがあった。後にこの縁がリズリーを救い、また苦悩させることになる。


 リズリーの母は姦通の事実がなかったことを主張し、使用人の奸計に嵌ったと訴えていた。その使用人が父親の遺言執行人に指名されていることから、彼女の言い分もあながち嘘ではない。

 ただ、リズリーの中で母への信頼が回復されるのは、まだずっと先となる。父親の死後14年も貞淑な未亡人であったことが、リズリーの女に対する考えを変えることになったのだった。


 そんな彼が愛することになるのは、敬愛するジェーンの恋敵アンの娘。宿命の乙女メアリアン。不思議な縁は王家に絡みつく糸のように、関わるものを数奇な運命に導いて行く。


 その最初の転機まであと数年。その日に向けて運命の歯車は回り続けていくのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 愛憎がめぐりめぐりますね。 複雑に絡まり合う人間関係が、まさしく「運命」「宿命」というのに、ぴったりで、ドキドキします。 歴史モノはこうでなくっちゃ、という、陰のある美しさと、重苦しいよ…
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