2. 予言の子
デヴァルーを乗せた馬車が到着したとき、屋敷はまだお産の興奮に包まれていた。もう夜中だというのに蜀台の蝋燭には赤々とした焔が点り、シーツやタライを抱えたメイドたちが足早に廊下を通り過ぎる。
執事と使用人たちは、正面玄関に集まってデヴァルーを迎えた。
今夜ほど男たちが使えないときはない。手持ち無沙汰でありながら休むこともできずにいた者たちは、デヴァルーの帰宅に少なからず胸を撫で下ろしていた。
この屋敷の所有者はレスター伯ロバート・ダドリー。デヴァルーの義父だ。かつては女王の寵愛をほしいままにしていた男。彼は50を目前にして、ようやく後継者に恵まれた。対外的にはそういうことになっていた。
馬車から飛び出すように降り立ったデヴァルーから、執事がマントと帽子を受け取る。
11月はすでに冬の真っ只中。防寒着には狩りでしとめた獣の毛皮が使われている。主の衣装の手入れを専用としている使用人にそれを託すと、執事はさっそく祝いの言葉を述べる。
「男子誕生、おめでとうございます」
「母親は? 本当に無事か」
「はい。私室にてお待ちです」
デヴァルーが夫人の私室へと走っていく姿を、皆が暖かい目で見守っている。貴族らしくないそれは、実に彼らしい行動だった。素直で一途で情熱的。それは女王が彼を愛おしむ理由でもある。まだ若いデヴァルーに伯爵の自覚を求めるのは難しいと、皆がよく理解していた。
夫婦の寝室をノックすると、中からドアが開いた。真っ白で清潔な寝具。ほのかに焚かれたビャクダンの香。心地よいベッドに半身を起こして座っているのは、やつれてはいるが美しい少女だった。母となるにはまだ幼い娘。
「まあ、旦那様。こんなに早く戻ってくるなんて」
「当たり前だ。心配で宴どころじゃなかったよ」
「大袈裟ね。大丈夫、お産は病気じゃないんだから」
「命の危険が伴うだろう。君に何かあったら……」
デヴァルーにぎゅっと抱きしめられて、少女は嬉しそうに彼の背中に腕を回す。彼女にとっては、この男の子を産むためならば、お産の痛みも苦しみも喜びだった。そして、この少女を救うためならば、デヴァルーは己の命も惜しくない。
「陛下は何かおっしゃっていた?」
「しばらくは、君についていろと」
「本当に?」
「ああ。僕を『盛りのついた泥棒猫』とからかったよ」
「誘惑したのは私よ。どうしてもあなたが欲しかったの」
「それは僕も同じだよ。陛下の目を盗んで、君を抱くくらいに」
愛し合う二人には、室内に控えている使用人どころか、ゆりかごで眠る赤子すら目に入っていなかった。この赤子こそ、チューダー王朝存続の鍵を握る者。偉大な賢者マーリンの予言の子。古い神に選ばれた存在だった。
すやすやと眠る赤子は、母方の祖父に似た大きな黒い瞳に漆黒の髪。ただ、その肌だけは母に似て透けるような白さだった。いずれ女を惑わす美丈夫となるだろうと、賢者でなくても予言できる。
その同じ頃、女王は寝室でくつろいでいた。女の身で男たちの上に立つのは、骨の折れる作業。夜の営みの間だけは、ありのままの姿で愛する男の下になる。それが彼女の唯一の癒しとなっていた。
「今宵は誰をお呼びになりますか」
「テオドアを」
「承知いたしました。ローズ、準備を」
女王の隣室では、若い女官が寝ずの番をする。寝室で女王に危険が及ばないよう、壁に意図的に建造された飾り窓から、女王の情事の一部始終を注視するのが仕事だった。
しかし、この部屋はずっと前から、違う目的で使われていた。ローズと呼ばれた若い女官は、興奮に頬を染めて隣室に向かう。今宵女王の寝室に呼ばれた寵臣を、そこで迎えるために。
しばらくして男が訪ねてくると、隣室のベッドがきしむ気配がした。すぐにひそやかな睦言と共に、継続した振動と卑猥な水音が聞こえてくる。期待通りに、若い女官は女王の寵臣を虜にしているようだ。女王はほっと安堵の息を漏らす。
「罪なお方だ。女官に若い寵臣の相手を?」
「男は若い女が好きだろう」
隠し扉から、黒いマントを纏った男が現われた。大きな黒い瞳と漆黒の髪。ただ、その肌は父親に似てジプシーとあだ名をつけられるほど浅黒かった。女王よりも少し年上に見えるが、その体躯は鍛えられて、壮年とは思えない逞しさだ。
「陛下より魅力的な女は、この世に存在しない」
そう言って女王の手を取ったのは、ここにはいるはずのない男。彼女の最愛の恋人レスター伯ロバート・ダドリーだった。
「王が女では、女官たちには張り合いがない。狙える王妃の座がないのだから」
「御父上のように、次々と妃を殺してもいいと?」
「まさか。ただ、恋人との交歓は必要。日頃の献身に報いてあげなくては」
「なるほど。女王のお世話は大変ですからね。私にもぜひご褒美を」
ダドリーが当然のように女王をベッドにさそうと、珍しく女王がその手を退けた。
「後継者ができた夜に?」
「泥棒猫の子のことですか?」
その言葉を聞いて、一人だけ女王の寝室に残っていた年嵩の女官が頭を垂れる。
「申し訳ございません。息子の不始末は私の命で償います」
それを見た女王は、慌てて彼女に駆け寄った。その手を握って謝罪する。
「あれは冗談。ちょっとお前の息子をからかっただけだ」
「その通り。愚息の暴走は、親にも止められないものですからね」
ダドリーは笑いながら、女王をベッドに引きずり込んだ。もちろん、それは彼の下半身の『愚息』のせいにして。
女王の恋人ダドリーは、女王の従姪の『夫』。そして、彼の猛る愚息が毎夜女王に突き立てられる様を見守るのが、彼の『妻』であるレティスの役目となる。
その年嵩の女官は、レスター伯ロバート・ダドリー夫人『レティス・ノウルズ』。女王の最愛の恋人ダドリーの正妻にして、宮廷から追放されたはずの女王の従姪だった。