19. 守護天使
上部をステンドグラスに彩られた出窓から、美しい婦人が庭園の礼拝堂を見下ろしていた。
森にはまだ雪が残っているのに、眼下には雪より白い花々が競って咲いている。待雪草、クロッカス、水仙は春の花。
庭園の入り口に、幼い女の子が姿を見せた。水のある場所に、幼児が一人っきりでは危険。花瓶に生けようとしていた切り花を手に持ったまま、婦人は階下に足を急がせる。
メアリアンはこの庭園が大好きで、一人でどんどん先へ歩きたがる。そんな彼女を追って散歩をするのが、ジェーンの毎朝の日課となっていた。
特にお気に入りなのが『白い庭』。そこで転んだメアリアンに駆け寄ったのは、妙齢の婦人だった。
『泣かずに立ち上がれましたね。よくできました』
婦人はしゃがんで、メアリアンの手をぎゅっと握った。誉められてメアリアンは嬉しそうに笑う。
「本当ね。メアリアンはお利口さん」
ジェーンが両手を広げると、メアリアンは笑顔で走り寄る。彼女を抱き取ってから、ジェーンは深々と膝を折って頭を下げる婦人に声をかけた。
「ごきげんよう。良い朝ですね」
『はい。ジェーン様にはご機嫌麗しく』
「私を知っているの?」
『城主から聞いております。実は昔、お母上様にお仕えしておりました』
「まあ。母に……」
艶やかな緑ビロードの上品なドレスを纏い、輝く金髪を地味にまとめた婦人は30代半ばに見える。ここの城主の妻や娘は、結婚前に侍女として王宮に仕えていた。その内の一人だろうとジェーンは思う。
『私が去った後のこと、ずっと心配しておりました』
若き頃の女王は力がなく、女ゆえに臣下に侮られていた。後ろ盾となる他国の王族との婚姻を勧められていたが、ダドリーを愛していた女王はそれを悉く退けた。
業を煮やした重臣がメアリー・スチュアートとの縁談でダドリーを国外に追い払おうとしたが、それはスコットランド側から断られたのだった。
女王がメアリー・スチュアートに甘いのは、このときの恩があるから。
「美しい白百合ね。このお庭に?」
『いえ、これは友人のところに咲いたものです。小さな淑女に差し上げましょう』
メアリアンは婦人から切り花を受け取ると、するりとジェーンの腕から抜けだした。そのまま屋敷のほうへと歩き出す。
「ありがとう。では、また……」
ジェーンは挨拶もそこそこに、メアリアンの後を追おうとした。その瞬間、婦人ががジェーンの手首をそっと掴む。朝の冷気に中てられたのか、その手はひんやりと冷たい。
『ジェーン様、どうか御身を大切に。お父上様にくれぐれもよろしくお伝えください』
「あら、父とも面識が?」
『はい。貴方様の名に込められた願いをお忘れなくと』
「名前?」
『お許しを。姪も同じ名前でしたが、若くして逝ってしまいました。あんな悲しい思いを、お母上様にさせたくないのです』
屋敷のほうから老乳母の呼び声が聞こえた。婦人はそっと手を離す。
「必ず父に伝えますね」
『ありがとうございます。どうかお幸せに』
婦人はまた深く膝を折って頭をさげる。ジェーンはそれを確認してから、彼女のそばを離れたのだった。
「この時期にバラが咲くなんて……」
『今年は春が、早いようですな』
ジェーンが窓辺で呟くと、暖炉の側に座る老紳士がそれに応えた。蜂蜜色の礼拝堂の石壁を覆う蔓に、一重の白バラが咲き誇っている。
窓から差す光に目を細めたこの老紳士は、現城主の祖父。元ロンドン塔長官、初代シャンドス男爵ジョン・ブリッジ卿だった。ジェーンの来訪を聞きつけて、別宅から挨拶に来たという。
『貴方様がいらして、あそこに眠る継妃殿がお喜びなのでしょう』
暖房の効く室内にも関わらず、ジェーンは緊張で指先が冷えていくのを感じた。
「あの噂は、本当なのですか?」
『由緒ある城に幽霊は付きもの。人に悪さはいたしませんよ』
処刑場であるロンドン塔はもちろん、ハンプトン・コート宮殿にも多くの幽霊が出没する。守護天使のようなもので恐れる必要はないと、ジェーンも母から聞いていた。
「私は、その、継妃様には憎い恋敵の娘で……」
『ああ、そちらの噂でしたか』
継妃が再婚後も手元で養育したのは、継子エリザベス王女と義姪ジェーン・グレイ。しかし、14歳のエリザベスをこの城に連れて来なかったのは、夫との肉体関係を知ったせい。
そんな噂が、まことしやかに囁かれていた。
『ロンドン塔では、無実の貴人をお預りすることもあります。体調の把握は看守の役目』
冷えやストレスによる女性の不正出血は、生殖機能の低下に繋がる。獄中のエリザベス王女の健康を管理していたのは、この元長官だった。
『お母上様が不正に出血されたのは一回だけ。お父上様が初めて迷子になられた夜でしたな。翌朝、新しいシーツと下着の支給を許可したので、よく覚えておりますよ』
微笑んでウィンクをする老紳士に、ジェーンは真っ赤になって俯いた。
『継妃殿がお母上様を遠ざけられたのは、夫の欲望から彼女の純潔を守るため』
部屋に飾ってある白百合が、花言葉である「純潔」に反応したかのように濃く香る。
『おや、もう庭に白百合が咲いていましたか?』
「いえ、あれは今朝、庭でご婦人からいただいたんです」
『ほう?』
「美しい方でしたわ。それにお優しい。私の身を案じてくれました。若くして亡くなられた姪御さんと同じ名前だったとか」
『ああ、そうでしたか。彼女は娘を2歳で、姪を16歳で亡くしております。ちょうど貴方様方と同じ年頃ですな』
「お気の毒に。後でお茶をご一緒に……」
『いえいえ。彼女はもう帰ってしまいましたよ。いつもほんの気まぐれに顔を見せたかと思うと、あっという間に消えてしまう』
「まあ、残念。では、またの機会にぜひ」
ジェーンがそう言うと、白百合の香りが部屋中に満ち溢れた。老紳士は嬉しそうにニコニコと微笑むばかり。それは暖かい春のある日。スードリー城での、穏やかな朝の出来事だった。
この城のかつての女主人『キャサリン・パー』はヘンリー8世の六番目の妃。
一人娘メアリーは2歳で夫の親族に殺され、養育していた義姪ジェーン・グレイはたった九日間だけ王位に就いた後、反逆罪で16歳の短い生涯を終えた。
処刑台の上まで彼女に付き添ったのは、当時のロンドン塔長官ジョン・ブリッジ卿。その様子はポール・ドラローシュの『レディ・ジェーン・グレイの処刑』に描かれている。
今回ジェーンがこの城を訪れたのは、その元長官が鬼籍に入ってから二十年以上も後のことだった。