18. 手折られた花
「お前は、アンか?」
「はい。お久しぶりでございます」
美しい所作で頭を下げるアンに、ジェーンの父レスター伯ダドリーは目を細めた。
「半年ぶりか。美しく咲いたな。デヴァルーに可愛がられているのか?」
「旦那様には……」
「義父上、お戯れはそのくらいで」
デヴァルーは急いで会話を遮った。アンの蕾が花開いたのは、自分ではなくウィルの丹精の賜物。その事実を彼女の口から聞きたくなかった。
半年ほど前から、領内の牢城に国賓が逗留している。元スコットランド女王メアリー・スチュアート。祖国で反逆者とされ亡命中の身だ。
スチュアート家はジェーンの親戚筋。その血縁を見破られないよう、全く他人のアンを影武者に仕立てていた。
「花には水。女には愛。絶えず注がねば、実を結ばんぞ」
「しかと肝に銘じます」
義父に子作りを揶揄されるのは決まりが悪かった。ジェーンには未だ、次の妊娠の兆しは見えない。
「まあいい。今日は大事な客人を招いている。準備に抜かりはないか」
「はい。リズリーを迎えの使者に立てました」
「ほう。チャールズ殿もお喜びだろう」
チャールズ・ジェームズ・スチュアートは、アンの恋人ジェームズ6世の本名だった。
「お客様は、どんなお方ですか?」
「私の学友だ」
「ケンブリッジの……」
「いや、別の大学で」
デヴァルーがケンブリッジのトリニティ・カレッジで修士課程を履修中だと、アンは老乳母から聞かされていた。
「『ジェーン』が別人だと知られてはならない。アン、大丈夫か?」
「はい」
「客人は一週間ほど滞在する。その期間だけでいい。頼むぞ」
「勿体ないお言葉。必ずやお役目を全ういたします」
この約束が自分を追い詰めるとは知らず、アンは真摯に身代わりの遂行を誓った。
プロテスタントの国で、カトリックの王族は争いの火種となる。その所在が特定されないよう、メアリー・スチュアートは各地の城を転々と回されていた。
表向きは囚人、実際は賓客として。
彼女の美貌に誘惑され、関係を持った領主も少なくない。しかし、この地の領主ダドリーはエリザベス女王の長年の愛人。彼に手を出すほどメアリー・スチュアートも馬鹿ではなかった。
代わりに彼女の目に留まったのは、若く美しい二人の青年。領主の義息子デヴァルーと、彼への連絡役を務めるウィルだった。
「可愛い嬬だ。デヴァルーが年増に誘惑されないわけだな」
「恐れ入ります」
デヴァルーは義父の軽口をさらりと流す。メアリー・スチュアートなどに、彼が靡くわけがない。彼女と懇ろになったのはウィルのほうだった。
ベッドで巧みにその素性と豊富な経験を聞き出し、それを『マクベス』に織り込んだ。
「そろそろだな。鐘を鳴らせ。皆を玄関に集めて客人を出迎える」
オックスフォードから約三年の月日は、ジェームズ6世を美少年から美丈夫へ変貌させている。その端正な容姿に城中の女達がため息をつく中、アンだけは皆と違う相貌を呈していた。
彼女の顔は真っ青で、体は小刻みに震えている。
かろうじて『ジェーン』として挨拶はできたが、手の甲にジェームズ6世からの接吻を受けると、そのままその場に崩れ落ちた。
「申し訳ありません。妻は具合が悪く……」
「緊張したんだろう。よくあることだ。すぐに休ませなさい」
アンを抱き支えながら、デヴァルーが代わりに謝罪する。
それに対してジェームズ6世は穏やかな笑みを浮かべて、寛容な態度を示した。しかし、アンの手を握ったまま離さない。
「ご招待のお礼に、私が心を込めて看病しましょう。どうか彼女を私の部屋へ」
「いえ、それは夫の責務ですので」
ジェームズ6世からの、冗談とも本気とも取れない申し出を受け、デヴァルーは急いでその場を取り繕う。
その日から、アンはエセックス伯夫妻の寝室で伏せっていた。ジェーンのスードリー城行きは、それから数日後のことだった。
妻が城を去った日の夜、デヴァルーが見舞うとベッドの上でアンは半身を起こしていた。
「具合はどうだ?」
「もう大丈夫です」
少しやつれたアンの顔には、ゾクッとするような色気があった。デヴァルーの心臓が跳ねる。
「チャールズ殿が、お前を所望している」
「……はい」
主が命令すれば、アンは見も知らぬ男にでも身を任せる。ならば、その相手は己のほうがいい。それがアンのためだと、デヴァルーは自分に言い聞かせた。
「ジェーンの名誉を守る。客人との醜聞が流れれば、彼女は命を絶って潔白を証明するだろう」
「そんな。一体どうすれば……」
「客人が帰るまで、ずっと私と共にいるように」
デヴァルーが上着を脱ぐ。胸元の紐をほどくと、シャツの胸元から鍛えた男らしい胸筋が覗いた。女王の愛人と噂されるに相応しく、彼はその容姿だけで女を濡らすような色気を持っている。
そんな男から獲物を狙う獣のような目で見射られて、アンは寝台から一歩も動くことができなくなった。
「奥様は……?」
「メアリアンと共に、他の城に移した」
「なぜ……」
「チャールズ殿の毒牙から逃れるためだ」
「どういうことでしょうか」
「あの男はジェーンの周辺を嗅ぎ回っている。私が側にいなければ、いつ夜這いを仕掛けるか分からない」
ジェーンは外へ逃がし、アンとは寝所を共にして、ジェームズ6世の魔の手から守る。それは、デヴァルーに都合のいい言い訳だった。
「邪魔する者はいない。お前は安心してジェーンの身代わりを果たせばいい」
「それで 奥様を救えるのですか?」
「そうだ。お前も彼女を守りたいだろう?」
「もちろんです」
「では、今宵よりお前を、我が妾として扱う」
「旦那様……」
その夜は一晩中、悪阻に苦しむ妻を慰める夫デヴァルーの甘い囁きが寝室から聞こえていた。
付きっきりの看護はいく晩も続き、賓客の送別宴にも欠席する過保護な夫ぶりは、周囲の失笑を買うほどだった。