17. 子を思う母、母を思う子
「ジェームズ6世が、私の素性を探っている?」
膝のクッションの上で、白い糸が巻かれたボビンが微かに揺れる。直火で肌を痛めないよう暖炉に背を向けて座り、ジェーンは熱心にレースを編んでいたところだった。
老乳母は神妙な顔のまま、その報告を続ける。
「正確には『エセックス伯デヴァルーの妻』の出自を調べているようです」
「どうして? 遠戚スチュアート王家の者に私の正体を見破られないよう、念には念を入れて替え玉まで用意したのに」
ジェーンは美貌の誉れ高かった母方ブーリン家の大叔母に似ていた。しかし、テューダー王家の色合いは薄くとも、威厳あるオーラは隠せない。
「どうやらその『替え玉』をお気に召したご様子です」
「アンを? まさか。ジェームズは、女に興味はないはずよ。今だって、寵童を閨に侍らせているんでしょ」
「その寵童、リズリーからの情報なんです」
ジェーンはため息をついて、編みかけのレースを道具ごと籠に入れた。木製のボビンがカチャカチャと音を立てる。
寡作で知られるオランダ人画家フェルメールが『レースを編む女』でモチーフにしたボビンレースは、ヨーロッパ全域で装飾品として流行りだしていた。
「どうしてかしら。アンは綺麗だけど華のない子よ。目立たないはずだったのに」
「だからこそ……、でしょう」
ジェームズ6世の女嫌いが、華やかな美貌で性に奔放な母メアリー・スチュアートへの嫌悪と反発ということは、周知の事実だった。
「アンは男好きするんですよ。あの容姿にあの体つきですからね。本当に、ちゃんと食べさせた甲斐がありましたよ」
老乳母は自慢げにそう言った。
ガリガリだったアンの体は、今ではふっくらと柔らかい丸みを帯びている。授乳を終えた乳房は、赤子ではなく男を喜ばせるのにちょうどいい大きさに落ち着いていた。
「ジェームズ6世の所望でも、アンはダメよ。恋人がいるんだから」
「デヴァルー様も、それをご存知で?」
「たぶん。だから、アンには手をつけなかったんだわ」
妻ジェーン公認でアンの寝所を毎夜訪ねながら、デヴァルーは寝物語を聞きながら眠りに就くだけだった。アンを夫の側女にしようというジェーンの目論見は、見事に砕け散った。
「ジェームズ6世が帰国すれば、メアリー・スチュアートもここを去る。アンの『替え玉』も終わるわ」
「結局、スチュアート母子の会談は実現しないようですね。これであのお方も、王位復帰を諦めるでしょう」
「どうかしら。これ以上バカな真似はしないといいんだけど。お母様だって、何度もあの人を許すわけにはいかないのに」
メアリー・スチュアートは、十年前にイギリス王位継承権を主張し、エリザベス女王廃位の陰謀に加担していた。このときは証拠不十分だったが、後の事件では関与が証明され、死罪を言い渡されることになる。
「アンはウィルと結婚させるつもりよ。愛する人と幸せになってほしいの」
城の侍女棟に隠れ住む冬の間、ジェーンはアンの花嫁衣裳を飾るレースを編んでいたのだった。
「娘共々、私たちの身代わりをしてくれているんですもの。彼女の忠誠に報いたいわ」
「王家の影武者は、常に暗殺の危機が伴いますからね」
女王の娘と孫。たとえ娘ジェーンの存在を突き止めたとしても、孫はメアリアンだと思われる。そうすれば、ギルフォードは難を逃れることができるはずだった。
「式まで待てず、アンは身ごもったりしないでしょうかねえ」
「それは大丈夫。中に出したことはないんですって」
アンとの仲が発覚したとき、ジェーンはウィルに釘を刺した。楽しむのはいいが、妊娠はさせないようにと。それに対するウィルの答えは、嘘ではないが真実を伝えてはいなかった。
「とにかく、ジェームズ6世の関心を逸らす必要がありますね」
「デヴァルーの『妻』は妊娠したということにしましょう。いくらなんでも、妊婦に夜伽は命じないわ」
「余程の酔狂でなければ、男は身ごもった女には興醒めしますからね」
「ええ。後で妊娠は間違いだったとでも言えばいいわ」
「ジェーン様の存在も露見する可能性があります。ひとまずここを離れたほうが……」
「そうね。どこに行けばいいかしら」
近くにはウォリック城がある。ほとんど使用されていないが、父方ダドリー家の所有であるため、そこに隠れたところで、今と状況は変わらない。
「スードリー城はどうでしょう。今はシャンドス男爵家の所有となっております」
「ロンドン塔の長官だった?」
「はい。かつてお母上様を収監した。現城主はその孫に当たります」
「聞いたことがあるわ。牢獄でのお父様との密会を見逃してくれたんでしょう?」
「他にも色々と便宜を図ってくださったそうです。お母上様はその恩をお忘れにならず、何度かこの城を訪れております」
後にスペイン無敵艦隊を破った記念日に、エリザベス女王はこの城で三日三晩の宴を催すことになる。また、この城は、かつてヘンリー八世の六番目の妃の居城だった。
女王はこの優しい継母と過ごした幸せな少女時代を懐かしみ、この城にある彼女の墓所を度々訪れている。
「すぐ出発するわ。メアリアンに支度を」
「ジェーン様! あそこに女の子を伴うのは……」
再婚相手の一人娘を出産した後、継妃は産褥熱でこの世を去っていた。娘を心配して彷徨う彼女の姿が、今でも城の中で何度も目撃されている。
「幽霊の噂のこと?」
「はい。後に残した赤子が気がかりなんでしょう。継妃様が亡くなったのは、出産から1週間にも満たなかったんですから」
「メアリアンは赤子じゃないわ。もう二歳よ」
「継妃様の娘が行方不明になった時期と、年齢が一致します」
「夫は処刑されていたわね。娘も殺されたのかしら」
「おそらく財産を狙った親族の仕業でしょうね」
「恐ろしいわ。やっぱりギルの出生の秘密が知れるのは避けたい。ときが来るまで、あの子は父レスター伯と義母レティスの子。デンビー男爵ロバート・ダドリーJrとして生きていくしかない」
「では、スードリー城には……」
「メアリアンを連れていくわ、私の子として」
その代わりに、何があっても自分がメアリアンを守る。恐ろしいのは幽霊ではなく生きた人間だと、ジェーンはそう実感していた。