16. 『マクベス』の護り
イギリスの丘陵を女性的な曲線とすれば、スコットランドの山野は男性的な猛々しさを湛える。
この地で起きる虐殺の歴史から、後に「嘆きの谷」と名づけられるハイランド南西部の渓谷は、高くそびえる岩山に挟まれていた。その硬い岩盤には草木も生えず、山の全景は雲にかくれて人目に晒されることもない。
この神々しい自然の姿こそ、ケルト民族の信仰対象であり、特に三つの連なる岩山を『三姉妹』と呼んで崇拝していた。また、この地で生まれたケルト神話の英雄は、祭司に魔法で牝鹿にされた母を持つと伝えられる。
カトリックが国策としてスコットランドに広まるまで、人々は大自然に神と魔法の存在を認めていたのだった。
『いいは悪い。悪いはいい』*
シェークスピア四大悲劇の一つ『マクベス』。不可思議な台詞を吐きながら、荒野に突如出現する魔女の三姉妹。彼らは雄大な自然への畏怖の具現化に他ならなかった。
『万歳、マクベス。グラミスの領主!』*
『万歳、マクベス。コーダーの領主!』*
『万歳、マクベス。国王になる者!』*
11世紀に実在したスコットランド王マクベスは、従兄を殺害して王位を奪った男。シェークスピアのこの悲劇は創作であり、彼の他にもモデルとなった人物がいた。
それはメアリー・スチュアート。スコットランドの女王。フランスの王妃。そして、イングランド王位を襲う者。但し、彼女を破滅へと導くのは魔女の煽惑ではなく、彼女の愛欲を満たす男たちの誘惑だった。
『さあ、早くここへ。私の精を貴方の耳に吹き込んで、巡ってきた好機を邪魔するもの全て、私の舌の男らしさで舐め清めてあげましょう』*
夫を王殺しに駆り立てるマクベス夫人の台詞。それはメアリー・スチュアートが閨で男たちから囁かれた誘いそのままだった。
彼らは甘い声で彼女を酔わせ、熱い舌で彼女を悦ばせる。そして、滾る欲を彼女の体内に吐き出し、溢れる野望で彼女の心を満たした。
己の淫行を白日の元に晒す素人の女役者は、その浮き名に違わず若く美しい。
女性役を演じるのは、声変わり前の少年とされた時代。彼女が舞台に立つのを許したのは、それが私的な催し故だから。
でなければ、ジェームス6世の目に母メアリー・スチュアートの姿が映る機会など存在しなかった。
『さあ、ベッドに。ベッドに。私のところへ。来て。来て来て。来てちょうだい。契りましょう。やってしまったら、なかったことにはできないの。さあ、ベッドに。ベッドに。ベッドに!』*
その罪が殺人であっても姦淫であっても、神の十戒を破った女たちに安らかな眠りは訪れない。死んだ人間の霊魂が、生きた人間の男根が、罪深い女たちを激しく攻め立て、その正気を奪う。
『男の力なぞ笑い飛ばせ。女の股から生まれない者だけが……』*
母の股から生まれ、愛人の股で死ぬ男たち。女のために生きて死ぬ運命。アンの存在にジェームスはその真理を実感していた。
「いかがでしたでしょうか。今宵の趣向は」
サウサンプトン伯の子息ヘンリー・リズリーがジェームズに声をかける。
この滞在期間中、領主との連絡係を務めたのはリズリーだった。この見目麗しい少年を気に入って、ジェームスは昼夜問わず特別に可愛がっていた。
「見事だった。主にそう伝えてくれ」
「デヴァルー様も喜びましょう。今宵は出席できず、申し訳ないと申しておりました」
「奥方の悪阻が酷いと聞いた。大事ないことを願っている」
「お心遣い、恐れ入ります」
ジェーンが懐妊を装って秘密裏にレスター伯領を発ったのは数日前。ジェームスが己の素性を調べていると知り、出生の秘密が漏れることを恐れてのことだった。
「定期的に様子を知らせてくれ。子が産まれたら祝いを送ろう」
「承知いたしました」
アンを奪い返すなら出産後を狙う。ジェームスには、男子なら後継者となる赤子をデヴァルーから取り上げる気はなかった。
「晩餐の前に、劇団の者を労いたい。この話の作者は誰か」
「ウィリアム・シェークスピアという者です」
メアリー・スチュアートの生き方をなぞりつつ、その破滅により正当な王位継承者ジェームス6世の繁栄が続く。『マクベス』は明らかに今夜の主賓を持ち上げる筋書きだった。
母子の感情の許容範囲を見極め、相方から不興を買わないギリギリを攻めたその手腕は、劇作家として賞賛に値する。目の前に跪く男に、ジェームズ6世は賛辞を口にする。
「良いものを観せて貰った。魔女の口上に乗せられて破滅する……か。興味深いな」
「興味深きは、人間の心でございます」
「そこに付け入るのが悪魔だ」
「仰せの通り。神も悪魔も人の心の中にこそ」
「鋭い指摘だ。シェークスピア、我が国へ来ないか。お前の才覚はこんな田舎に眠らせておくのは惜しい。王都で活躍できるよう手配しよう」
「私にはこの地に愛する者がおります。私が書くのは彼女のため」
ここにも、女に死ぬだろう男がいる。だが、その迷いない潔さは、ジェームズには羨望の対象となった。
「いい心がけだ。その者は妻か?」
「女神です」
「女神か。名は?」
「……アン」
「アン……。Eで終わるAnneか?」
「はい」
「氏は?」
「ウェイ……、ハサウェイです」
「ハサウェイ嬢か。大事にしてやれ。これを彼女に」
ジェームズは肩でローブを留めていたブローチを外した。国花のアザミを象ったアメジストが、美しい金の細工で飾られていた。
「何かの折りは、これを持って私を頼れ。今夜の娯楽の礼にお前の女神に庇護を与える」
「ありがたき幸せ」
「必ず守ってやろう。何者からも。男からも魔女からも」
彼がその指輪を再び目にするのは、それから数年の後。デンビー男爵ロバート・ダドリーJrの訃報を聞くときだった。
*Fair is foul,and foul is fair
*All hail, Macbeth! hail to thee, thane of Glamis!
*All hail, Macbeth, hail to thee, thane of Cawdor!
*All hail, Macbeth, thou shalt be king hereafter!
*Hie thee hither,That I may pour my spirits in thine ear; And chastise with the valour of my tongue All that impedes thee from the golden round
*To bed, to bed! there's knocking at the gate: come, come, come, come, give me your hand. What's done cannot be undone. To bed, to bed, to bed!
*laugh to scorn The power of man, for none of woman born