15. メアリー・スチュアート
繊細で複雑な織りの絨毯の上には、ふかふかとした毛皮が敷き詰められている。広く豪華な客間を暖めるために、石造りの大きな暖炉には薪が赤々と燃えていた。
外敵に備えて鉄格子をはめた高窓から差す光は鈍く、もうすぐ春になるというのに室内は暗い。そのため、日中でも幾千もの蝋燭が惜しげもなく灯され、城中がその焔に燦然と照らされていた。
重厚な木のドアの内側には国から付き添ってきた騎士が帯剣で、外には甲冑を着た兵士が槍を持って護衛を勤めている。貴族の客人にしては、この警備は大袈裟だと思われていた。
しかし、この者の身分を考えれば、これはむしろ簡易すぎる。よほど城主を信頼していなければ、こんな無防備ではいられない。これでは寝首を搔かれてもおかしくはなかった。
「何か分かったか? ジェーンという女のことだ」
「はい。レスター伯の庶子でした。母親は知れませんが、生まれてすぐにエセックス伯領に里子に出されています」
スコットランド王ジェームズ6世の問いに答えたのは、彼が全幅の信頼を置く壮年の家庭教師。生涯を通じて良き相談相手となった、数少ない彼の味方の一人だった。
「バカな。あれはオックスフォードの町娘だ」
「陛下。恐れながら、あのお方の所作は平民のものではありませんでした。別人かと」
「あれほど似た人間が、そうそういるわけがない。彼女はアン・ウェイトリー。間違いない」
ジェームズの母メアリー・スチュアートの亡命先で、彼は亡くしたと思っていた恋人に再会した。城主の義理の息子エセックス伯ロバート・デヴァルーの妻。ジェーンと紹介されたが、ジェームズが愛する女を見間違えるはずもない。
「しかし、それでは陛下が出会ったとき、すでに彼女は身ごもっていたことに……」
「そんなはずはない。アンは男を知らなかった」
ジェームズがオックスフォード大学に滞在したのは数ヶ月だけ。新大学設置への支援可否を検討するため、かの大学の設備と経営を視察するのが目的だった。
実際に、彼は数年後に市議会の請願を受けいれ、エジンバラ大学設立の勅許を出す。その際には資金も拠出することにしていた。
お忍びでの遊学とはいえ、当然ながら隣国の国王の動向はイギリス側に筒抜けだった。
ジェームズが大学でデヴァルーと面識を得たのは、単なる偶然ではない。女王の後継者最有力候補のために、国中から同じ年頃の優秀な貴族の子弟が集められていたのだった。
「ブキャナンはお産で母子共に死んだと言った。だが、他に証人はいない」
「あの老先生が嘘を……。それは何か理由があってのことでしょう」
死産したアンに金貨を渡して去った老人は、ジェームズの元家庭教師ジョージ・ブキャナンだった。
王権神授説ではなく、国王は人民から選ばれた存在だと説く彼は、アンの存在が若き国王の傷となることを恐れた。子もない平民上がりの愛妾の存在は、後の縁談にも差し障る。
それでなくとも、男癖の悪い母への嫌悪から女性を嫌い、男色に走っていた国王の寵臣政治は周囲から強い反発を受けていた。
幼い国王を正しい方向に導く。それは国から国王の教育を任された彼なりの正義だった。
「とにかくアンに会う。事情が許せば、すぐに国に連れて帰る」
「エセックス伯の奥方です。社交の場には出ないようですが、教会で婚姻を結んだ正式な妻」
「国教会は離婚を認めているだろう」
「結婚は神が結ぶ契約です。簡単に解消できるものではありません」
女王エリザベスの父ヘンリー八世は、生涯で六人の王妃を持った。しかし、それは離婚によってではない。ローマ教皇の許しを得ずに婚姻の無効が認められたというだけだった。
実際には国教会教義により婚姻無効とされた妃が二人、姦通罪で処刑された妃が二人。一人は産褥による死別で、最後の妃との婚姻中にヘンリー自身が病死している。
「では、デヴァルーが死ねばよいのだな」
「陛下、エセックス伯の母は女王の縁戚。そのようなことを、口にされてはなりません!」
「冗談だ。私は母上とは違う」
ジェームズの法律上の父ヘンリー・ステュアートも、実父と言われるイタリア人音楽家ディビッド・リッチオも、メアリー・スチュアートの愛欲の犠牲となり、非業の死を遂げている。
廃位されて隣国に亡命した後も、彼女は王位への復帰を狙い続け、己の美の信奉者たちを利用して、若き国王を支える優秀な摂政たちを次々と殺害していた。
「御母上様との謁見につきましては……」
「丁重に断ってくれ。あの女を許す気はない」
「レスター伯の意向を無視するおつもりですか?」
この地へジェームズを呼び寄せたのは、城主レスター伯ダドリー卿だった。状況次第では、ジェームズの書類上の父となっていたかもしれない曰く付きの人物。
「女王陛下は我が名付け親。私が実母から受けた仕打ちも知っている。ここまで出向いただけでも、誠意は伝わったはずだ」
「そうは思いますが……」
「あの女は厄介な罪人だ。血の繋がりがあるせいで、罰したくとも罪悪感が邪魔をする。生活費に充てる年金だって馬鹿にならない。女王には敬意しかないな。その情人レスター伯にも、それ相応の礼儀を払おう」
その時々の恋人に唆され、メアリー・スチュアートはイギリス王位継承権を主張して、エリザベス排除の陰謀に加担していた。何度も有罪判決を受けながら、エリザベスは極刑の執行を渋っている。
「母の身柄はレスター伯に委ねる。女王への忠誠の証だ。あの女の価値は人質としてだけなのだから、国に戻ってはその役目すら果たせない」
エリザベスがメアリー・スチュアートを生かしておくのは、ジェームズへの牽制となるから。それは誰の目にも明らかだった。
「しかし、ここまで来てお姿さえ見ずに帰るとは……」
「気にすることはない。今夜はレスター伯お抱えの劇団が面白いものを見せてくれるそうだ。素人の女が芝居に参加するらしい」
その夜、メアリー・スチュアートが扮したのは、主を殺して王位を奪うよう男を焚きつける悪女の役。まさに彼女の生き方そのものだった。