14. 妖精のとりかえ子
廊下の奥から聞こえる声に吸い寄せられるように、ウィルはアンの部屋へと足を速める。
短い夏が終わり、この国は長い冬に入る準備を始めていた。少し空いたドアの隙間から、すでに落ちかけた西日のオレンジ色の光が差している。
「しばらく屋敷を空ける。義父上が城に大事な客人を伴ってくるんだ」
部屋の中から、屋敷の主デヴァルーの声が聞こえた。ウィルの位置から見えるのは、床に散らばったアンの服と主の上着、そして乱れたベッドの端だけ。
「お前の寝物語は絶品だ。すぐに眠ってしまうな」
「いいえ。よくお休みになるのは、お戯れでお疲れだったからでしょう」
「確かにお前といると元気になる。ジェーンの前では大人しいというのに」
「緊張されるんでしょうか」
「彼女は厳しいからな。さすが私の息子は正直だ」
主と使用人の睦言か。二人の関係を探るように、ウィルは聞き耳を立てる。
「文字を学べば本も読める。面白い話があれば、聞かせてほしい。そのために、住み込みの家庭教師を手配した」
「家庭教師ですか?」
「ウィルだ。お前の役目に相応しい教養を身につけるよう」
「でも……」
「難しく考えなくていい。彼なら知り合いだし、お前も心強いだろう」
ウィルがアンの家庭教師に任命されたのは、今朝のことだった。彼の創作『夏至の夜の夢』を気に入ったジェーンの希望。
「ウィル様は、農場に御用が……」
「今は農場主の具合が良くないそうだ。娘が付きっ切りで看病しているとか」
「旅の一座は、どうなるのでしょう」
「城下町で余興の準備をさせている。宴で客人に披露するために」
農場の娘アグネスは、病気で倒れた父親の世話で忙しい。彼女の献身が遺産目当てなのか、それとも親子の情なのか。ウィルはその意図を量りかねていた。
病人が無事に冬を越すまでは、恋人ウィルとの逢瀬もままならない。彼女がそう言ったのは、農場の全権を握った兄夫婦の監視の目が厳しくなったからでもあった。
旅芸人が去った後では、ウィルが納屋を訪れる理由もない。女を抱き慣れた彼の体は熱を持て余し、近頃は町娘や城の下働きの女たちと情を交わしていた。
「義父は演劇に造詣が深い。気に入られれば、お抱えの劇団になる」
「みなが喜びます」
「それはウィルの腕次第だな」
「ウィル様の?」
「脚本と演出を担当させる。彼は演技にも長けているらしい。リズリーが朗読を聞いて絶賛していた」
「分かります! ウィル様のお話はとても上手で楽しくて……」
「……眠ってしまうのが、もったいなくなる」
「はい! あ、いえ、あの……」
「いい。話は聞いている」
ウィルが創作した物語を、なぜアンが知っているのか。ジェーンにそう問われたとき、彼は事実にほんの少しの脚色を加えて答えた。納屋で寝物語に聞かせたが、結局は彼女を寝かせられなかったと。アンとの肉体関係をほのめかしたのだった。そのおかげで、彼は彼女の家庭教師の職の得た。
実際に、恋人アグネスは彼の話に興味を示さなかった。最初の何回かは聞くふりをしていたが、すぐに飽きて寝入ってしまう。彼の話を最後まで聞いていたのは、抱き合う二人の側で寝たふりをしていたアンだった。彼女が背中に見せる僅かな反応が嬉しく、それをより面白い話にするための参考にした。
ウィルにとってアンは最初の観客。デヴァルーにでさえ簡単には渡したくないと思うくらいには、特別な意味を持つ存在だった。
「ウィルには、引き続き伝言係をさせる。昼間は城に出仕し、夜はここに戻る。城のことも、彼から学ぶように」
「旦那様のお心に沿うよう、努力いたします」
「心地よく過ごしてくれ。この家の女主人になるのだから、それ相応の振る舞いも身につけるんだ」
ベッドの軋む音が聞こえた後、室内からデヴァルーの足音が響く。床に落ちていたデヴァルーの上着が拾い上げられた。
「そろそろウィルが来る。部屋を整えなさい」
「はい」
その会話を聞いたのを最後に、ウィルはそっとその場を立ち去った。握り締めた拳の中で、爪が掌に食い込んで痕をつける。
廊下から人の気配が消えたのに気がつき、デヴァルーはほくそ笑んだ。アンと二人きりで暮らすのだから、ウィルにこのくらいの意地悪と牽制は許されるだろう。彼はそう思っていた。
「ジェーンのために、苦労をかけるな」
「いいえ。奥様には良くしていただいてます。ご恩返しができれば」
アンの視線の先には、ベッドですやすや眠る子どもたちがいた。いまや悪戯盛りの1歳児。部屋中にアンの服をひっぱりだし、遊び疲れての昼寝中だった。彼らを寝かしつけられるのは、アンが語る寝物語だけ。彼女に字が読めれば、寝る前に本の読み聞かせができるという算段だった。
「それにしても、ジェーンが母子共々の『とりかえ子』を思い付くとはな。ウィルの物語の影響だろう」
「何かご事情がおありなのですね」
エセックス伯ロバート・デヴァルーの妻は女王の隠し子ジェーン・チューダー。その事実を知られてはいけない理由は確かに存在した。
「演技はウィルが得意とするところだ。よく学んでくれ。ジェーンの身代わりが勤まるようになったら、お前を私の妻として客人に紹介する。私の子メアリアンの母として」
「承知いたしました」
「客人は亡命者。その息子は私の学友でもある。お忍びでの滞在になるので、このことは他言しないよう」
ジェーンの父レスター伯ロバート・ダドリーには、若い頃にスコットランド女王メアリー・スチュアートと縁談があった。ジェーンの母への愛と忠誠により破談となったが、彼女が廃位と同時にイギリスに亡命した後も、その縁は続いている。
軟禁状態で各地を転々とするメアリーが、この地に目をつけたのは偶然ではない。旧知のダドリーを通じてエリザベス女王の庇護を取り付け、堂々と祖国へ戻るための計画だった。
その祖国で王位を継いでいるのは、彼女の息子ジェームズ6世。彼女はこの地で、彼との面会の場を持つことを希望していた。