13. 愚者
城や教会の周囲には、貴族や聖職者の金を目当てに人が集まる。ケニルワース城も例外ではなく、城下街には大きな食料市が立っていた。
今は城主の奥方とその息子が滞在しているだけに、その賑わいは平常よりも大きい。
物の売買は家族総出の仕事となり、自然と街に子どもの数が増える。幼い頃から労働力とされる農家の子どもに、教育を受ける機会はない。彼らはいわゆる文盲だった。
『見ろ。なんと美しい小姓だ』
『そりゃそうさ。あれは母親を亡くしたインドの王子』
『ああ、王妃様が親代わりになって、手元に引き取ったという。噂に聞く妖精のとりかえっ子!』
城からの伝言を持ったまま、リズリーは少し離れた場所からその様子を眺めていた。視線の先には、伝言係の青年ウィル。彼を囲むように、十数名の小汚い子どもたちが座っている。
『ティターニア、あの小姓を私に譲ってくれ。さすれば望む褒美をやろう』
『オベロン様。相変わらず身勝手な方。私はモノと我が子を交換したりはいたしません』
『なんと生意気な。お前は夫の言うことが聞けぬのか!』
城からの伝言を待つ間、ウィルはいつも何かを紙に書き付けていた。その様子がもの珍しかったのか、いつの間にか子どもたちが集まるようになった。
そして、いつの頃からか、ウィルはその子どもたちに、自分が書いた物語を語り聞かせるようになっていたのだった。
その原典が分かるような話であっても、リズリーは聞き逃したくないと思ってしまう。
ウィルの語り口は生き生きと登場人物を輝かせ、その話の運びは聞き手の興味を引き出す。セリフに至っては声色まで変えているので、まるで実際にその物語を見ているような錯覚に陥った。
「あれはどなたでしょう?」
そう問われてリズリーが振り返ると、そこには黒いベールを被った黒衣の老女がいた。ウェーブのかかった長い黒髪。右手に杖を持ち、左目には黒い眼帯。その横には、彼女の娘か孫くらいの年齢の女性が控えていた。
おそらくは、視力が弱いのだろう。そうでなければ、いかにも身分があると分かるリズリーに、こんな風に気楽に話しかけてこない。いや、そもそも、こんなところに自分がいることのほうが場違いなのだと、リズリーは自覚していた。
「城主様の伝言係ですよ。子どもたちに読み聞かせをしているんです」
「ほう。では、プロの語り部ではない?」
「はい。皮職人の息子だとか」
「なんと! しかし、あの声はオベロン。あの話し方はティターニアそのもの。本人たちが見たら、さぞ驚くでしょう」
妖精王オベロンは、フランスの英雄詩「ユオン・ド・ボルドー」に着想を得たウィルの創作上の登場人物。ティターニアはその妃だった。現実と空想の区別がつかないのか、老女はまるで妖精に会ったことがあるように言う。
「芸達者なんですよ。なりきって演じるので、本当にその人物を見ているみたいですね」
頭が少しおかしい老女。その見た目が凛としているだけに、その気の毒な人生を哀れんで、リズリーは彼女に寄り添った返答をした。
『パックよ! 出てこい』
『王様、お呼びですか?』
『恋煩いの草を知っておるか? キューピッドの矢が落ちた場所に生える』
『媚薬の原料の?』
『そうだ。すぐに取ってこい。お前に面白いことをさせてやろう』
いよいよ、子どもたちに大人気の悪戯小僧が登場した。彼を語るウィルのおどけた口調もとぼけたセリフも面白く、彼が引き起こす騒動がみなを夢中にさせていた。
「妖精のパックです。お調子者でおっちょこちょい。悪戯者で考えなし。困った小僧です」
「ええ。本当に見事な語りだこと。まるであの鼻つまみ者が乗り移ったかのような。あの語り手のお名前は、一体なんと言うのでしょう?」
「ウィルです。ウィリアム・シェークスピア」
「ウィル……。おそろしい子!」
老女はそう言って、急に狂ったように笑う。その様子に唖然とするリズリーに構うことなく、側に付き添っていた女性が老女の腕をガッと掴んだ。
「それがやりたくてその格好ですか。馬鹿馬鹿しいったら」
「いや、だってホレ、これは演劇の天才を前にしたときの名ゼリフじゃで……」
「アンブローズ様、いい加減になさいまし! さっ、もう行きますよ!」
老女の腕から手を話すと、その女性はリズリーに丁寧に頭を下げた。そして、そのまま市場の方向へ歩いていってしまった。黒髪の老女は決まりが悪そうな顔で、掴まれた腕をさすっている。その情けない様子に、リズリーは親近感を抱いた。
「やれやれ、ゲイリスは頭が堅くていかん。そこのお方、あなた様はあのパックをどう思われますか?」
老女が指さす先では、ウィルの語りが物語の山場に差し掛かっていた。うっかり者の妖精パックは、媚薬を間違った者に塗ってしまう。そのせいで、みなが大混乱に陥っていた。
「愚か者ですね。まるで道化だ」
「おや、お若いのによく分かっておられる。道化とは優れた権力者に必要な存在。その笑いの中に主の愚を映し出す。主が己を律するための鏡の役目」
「それはつまり、妖精パックの愚行が、妖精王オベロンを正道へ導くと?」
「その通り! 愚かでなければ、王の道化は務まらない。賢いあなた様にはお分かりでしょう」
この老女は凡人ではないのかもしれない。リズリーは今まで会った人物をざっと思い浮かべた。アンブローズという名にも聞き覚えがある。
「失礼ですが、どこかでお会いしたことは?」
「どうでしょう。私はしがない占い師。必要とされれば、どこへでも参ります」
「ああ、なるほど」
名のある占い師ならば、貴族の館どころか宮廷にも呼ばれる。政治や権威について詳しくてもおかしくない。
「お若い方、お忘れなさいますな。道化とは鋭い洞察力と富んだ機智で愚か者を演じる。それがあなた様の存在意義」
「私に道化になれと?」
「誰が権力者になろうと道化は必要。生き残る知恵となさいますよう」
「それは占いでしょうか」
「いいえ。老婆心からの忠告でございます」
黒衣の老女はそう言い残して、連れの女性が去った方向にゆっくりと歩いて行く。追いかけて彼女の素性を確かめたいと思うのに、なぜかリズリーの足は棒のように動かなかった。
後にサウサンプトン伯となるロバート・リズリーは、女王の晩年に大逆罪でデヴァルーと共に投獄され、爵位を剥奪されている。だが、次代の王の即位によって一人だけ釈放され、爵位も復活する。
彼が死刑囚から見事に政界に返り咲いたのは、史実から抹消された後継者の争いで、常に愚か者であったからだった。