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10. 不思議な縁

挿絵(By みてみん)

表紙作成:楠 結衣様


 まるで本物の王女。それが、アンが彼女に抱いた第一印象だった。


 実際、彼女は母である女王に良く似ていた。ストレートの金髪に、緑色がかった薄茶色の瞳。レースで飾られた紫ビロードのドレスが、彼女の抜けるように白い肌を更に蒼白に見せている。


 しかし、アンの目に映ったのは、そういう外見的特徴ではない。その瞳に宿る王家特有の鋭い光。堂々と気品が溢れる態度と、高貴なオーラに包まれた優雅な身のこなし。


 その身に他国の王の情けを受けたアンは、彼女から漂う威厳に愛した男と共通するものを感じ取ったのだった。そして、その直感は正しい。


 アンの主となるジェーン・チューダーにとって、アンの恋人スコットランド王ジェームズ6世は従兄弟の子に当たる。ジェーンの祖父とジェームズ6世の曾祖母は姉弟。その血ゆえに、二人はいずれ後継を争う立場にあった。


「あなたが新しい乳母ね。来てくれて嬉しいわ」


 誇り高い貴族の令嬢。しかし、その外見からは想像できないほど、彼女の言葉は気さくで、向けられた笑顔は優しかった。

 忘れかけていた愛しい男の笑顔がなぜか蘇り、アンの恋心が再びざわざわと波立った。彼を思い出す理由が思い当たらないのに、不思議と思慕だけが募っていく。


 その令嬢の横に、先ほど玄関で会った少年紳士が並んだ。姉と弟にしては、二人には似たところがなさすぎる。むしろ、女主人と従者というのが、その醸し出す雰囲気に相応しい表現だった。


「アンと申します。どうかよろしくお願いいたします」

「私はジェーン。これは夫のロバート・デヴァルーよ」


 二人が夫婦だというのも意外だったが、それよりもアンを驚かせたのは、貴族が平民に名を告げたという事実だった。乳母を必要としているのはこの二人の子なのだと、アンは瞬時に理解する。


「同い年だと聞いて、とても楽しみにしていたの。その子があなたの娘?」


 アンが腕に抱いている女児は、満腹でぐっすり眠っている。ジェーンは女児を包むミルクの香りに、うっとりとため息を漏らした。健康で丸々とした赤子は、アンの乳でスクスクと育っていた。その事実がジェーンを満足させる。


「ぷくぷくしてかわいい子ね。名前は?」

「メアリアンです」


 旅芸人たちはその子をそう呼んでいた。本当の名は実母と同じ『Morrighanモーリアン』だと、アンは座長の女房から聞いている。形見となった実母の服の裏地に、そう縫いこまれていたのだった。

 その服は女児のおむつとなり、やがて汚れて捨てられてしまった。だから、彼女の出自を知る手がかりは、この名前の他にはもう残っていない。


「うらやましいわ。私も女の子がほしかったの。これが私の息子よ」


 アンの乳の匂いを嗅ぎ取ったのか、ゆりかごの中から元気な泣き声が聞こえた。促されるまま、アンはメアリアンを側に控えていた老女に託す。


「お腹が空いたのね。構わないから、すぐにお乳をあげてちょうだい」


 ジェーンの言葉に従って、アンは男児を抱き上げようと手を伸ばす。その手が一瞬止まったのは、男児の顔が愛する男に似ていたから。アンの赤子が生き返ったのかと、思わず勘違いするほどだった。


「ギルフォードよ。ギルと呼んであげてね」


 ジェーンの声で我に返ったアンは、急いで男児を抱き上げる。着ていた服の前リボンを解いて、慣れた手つきで男児の口元に乳首を宛がった。漏れた乳で服が汚れないように、もう一方の乳房に布を当てるのも忘れない。


 ジェーンだけではなく、ロバートもその豊満な胸に目が釘付けとなった。


 青筋が立つほどに硬くなった乳房が、小さな手に揉みしだかれながら吸われて、どんどんと柔らかくなっていく様子は興味深い。当て布に漏れ出した乳からは、甘い匂いが漂ってくる。


「立派な乳でございますね。ジェーン様、この娘を雇って大正解ですよ」


 メアリアンを抱いた老女が、感心したような声をあげた。


「そうね。ギルだけじゃなくて、旦那さまもアンの胸をお気に召したようですし?」


 ジェーンはそう言って、ちらりと夫に目線を走らせる。アンの胸に淫らな妄想を抱いていたロバートは、気まずさを隠すように咳払いをしてから、目をさっと逸らした。そんな夫の様子を、ジェーンは笑って流す。貴族の男として、側室の一人や二人を持つのは当然のことだった。この程度のことで、とやかく言うことはできない。


 血筋は高貴と言っても、隠し子であるジェーンには貴族籍すらなかった。だからこそ、ギルフォードは『ロバート・ダドリーJr.』として、彼の祖父とその正妻レティスの子とされたのだ。


「乳母をしていた娘が、うっかり次の子を妊娠してしまってねえ。乳の出が悪くなって、急遽新しい乳母が必要になったんですよ。ウィルに心当たりがあって、本当にようございました」


 老女は目を覚ましかけたメアリアンをあやしながら、満足そうにそう言った。


「ええ。この土地に詳しい者を雇った旦那様の先見の明ね」


 アンにこの仕事を紹介したのは、この屋敷にメッセンジャーとして取り立てられた青年。この土地の名士の息子ウィルだった。アンは彼と親しく言葉を交わしたことはない。それでも、彼が恋人のアグネスに語る寝物語は面白く、二人の隣で寝たフリをしながら、アンはそれをこっそり聞いていた。


 そして、アグネスが去った後に彼の体を清めるのが、アンの役目だった。その礼として、戸口で見送るアンに、ウィルはいつも小さなお菓子を手渡す。若いアンにとっては、その甘さが涙が出るほど美味しく感じられた。


 互いの本心がどうであれ、二人は本当にそれだけの繋がりだった。


「私には子育ての経験がありません。ご主人様の期待に添えるかどうか……」

「大丈夫よ。この人は私の乳母なの。子育てのベテランよ。分からないことはなんでも聞くといいわ」


 ジェーンが老女をそう紹介すると、彼女は得意そうにその後を続けた。


「そうですよ、アン。あなたもまだ子どものようなもの。母娘共に教育しましょうぞ。まずはこのガリガリな体をマシュマロみたいにふっくらさせなくてはね。これじゃ、枯れ木に大きなメロンがぶらさがっているみたいですよ」


 貧相な体に不似合いな大きな乳房のことを、老乳母殿がずばりと指摘した。それに頬を赤らめたのは、アンではなくデヴァルーであったけれど、女たちはそれを見て見ぬふりをしたのだった。

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