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1. 女王の恋人

挿絵(By みてみん)

表紙作成:楠 結衣様


 16世紀後半イギリス。ロンドンのストランドにある屋敷から、宮廷に向けて使者が立った。女王の宴に出ている少年貴族に、赤子の誕生を告げるために。


 正式な妻から生まれた男子は後継者となる。つまり、その知らせは吉報だった。だが、その両親の立場のせいで、そうはならなかった。

 赤子の父親は女王の恋人『レスター伯ロバート・ダドリー』。母親の『レティス・ノウルズ』は女王の従姪(いとこのむすめ)という。


 この二人が秘密裏に結婚したとなれば、悋気の強い女王の逆鱗に触れるのは当然だった。侍女だった従姪(レティス)は宮廷から追放され、寵臣だった恋人(ダドリー)は宮廷での権力を失った。

 それだけでは終わらず、恋人(ダドリー)の不実と裏切りへのあてつけに、女王は若い男たちを従者として侍らせ、惜しみなく寵愛するようになった。


母と子ほどの年齢差を気にすることなく、女王は彼らを寝室に呼んで可愛がる。今、女王の一番の寵臣は『エセックス伯ロバート・デヴァルー』だった。女王にとっては憎い恋敵レティスが、前夫との間に儲けた男子。そのデヴァルーに『異父弟』が生まれたという知らせが届いたのだ。


 その使者が到着したとき、宮廷ではネーデルランドからの使者をもてなす宴が繰り広げられていた。献上されたオランダ民族舞踊を、女王はさも興味なさそうに鑑賞する。

 女王は赤いビロード張りのふかふかの玉座に座り、繊細な細工で飾られたその背もたれの後ろには、いつものようにデヴァルーが控えていた。

 

 オランダ独立戦争が勃発して十年。新教である国教会の長としては、女王がネーデルランドの新教徒『カルバン派』を擁護することは理にかなう。

 だが、彼らの敵対する相手(カソリック)がハプスブルグ家となれば、話は複雑だった。ハプスブルク家の君主は『スペイン国王フェリペ2世』。女王の姉メアリーの夫で、女王とは元義兄妹の間柄になる。


 今、フェリペ2世の機嫌を損ねるのは得策ではない。この時期のイギリス国内はまだ不安定で、強国スペインに対峙するのは避けたいところだった。その無敵艦隊をイギリス海軍が破り、スペイン全盛期を終わらせるのはもう少し先の話になる。


 そんな場へ赤子誕生を伝えに走ったのは、デヴァルーの側近となった少年だった。


 彼が近づいてくるほどに、デヴァルーは体から血の気が引くような恐怖を味わっていた。その口からもたらされる知らせが、良いものか悪いものか見当がつかないからだ。


 まだ14歳。若すぎるデヴァルーには、子が生まれるということも親になるということも、まったく未知の世界だった。だが、すでに女も愛も知っている身であれば、完全に無知というわけではない。出産という命がけの作業に、ただ母子の無事のみを願っていた。


 少年が側に来て、そっとデヴァルーに耳打ちする。その瞬間、デヴァルーの額には不安と緊張の汗が光っていた。


「男子誕生、おめでとうございます」

「子の母は? 無事なのか」

「お健やかです」


 少年の返答に安堵すると、デヴァルーは体中の力が抜けるような感覚を味わった。同時に今まで感じたことのないような喜びに包まれ、叫びだしたい衝動に駆られた。


 そんなデヴァルーに女王が声をかける。彼に急ぎの連絡が届いたことは、容易には見逃されなかった。


「デヴァルー、その少年をここへ。何か面白い報を持ってきたようだな」


 女王の命に従って、若い二人が玉座の前に進み出る。宴の余興に飽きた貴族たちは、少年を好む女王の性癖に興味深々で、密かに聞き耳を立てていた。デヴァルーが使者の素性を明かす。


「これは最近、我が側近に取り立てた者」

「ヘンリー・リズリーと申します」


 少年が深く頭を下げる様子に、女王は目を細める。


「ああ、お前が……。思ったよりも幼いのだな」


 周囲の貴族から忍び笑いが漏れた。リズリーは8歳。さすがの女王も精通を迎えていない少年は抱けない。つまりはそういう意味の嘲笑だった。


「伝言を持って来てくれました。子が生まれたと」

「ほう。……女か?」

「男でございます」

「息子か。すばやい所業だな。人目を忍んでの逢瀬はよほど激しかったと見える」


 女王があからさまに不機嫌な声を出したので、周囲に重苦しい空気が漂った。


 恋人(ダドリー)の正妻に息子が生まれた。たとえ国王であっても、女ならばその事実に嫉妬しないはずがないだろう。

 貴族達はとばっちりで女王の怒りが自分に向くことを恐れ、急に隣席の者同士で適当に談笑を始めた。


 その様子を見た女王は、怒るどころか楽しそうな笑みを浮かべた。反対にデヴァルーの表情から喜びは消え、その顔は耳までも真っ赤になっていた。


「恥じることはあるまい。泥棒猫の交尾など、うるさいだけで趣も何もない」


 泥棒という言葉に反応してか、今度はデヴァルーの顔色が蒼白になる。


 夫の喪中に女王の恋人を寝取った実母(レティス)。その背徳的行為を女王に責められ、その罪の重さにデヴァルーが恐れをなしているように見えた。

 知らん振りを決め込んでおきながら、貴族達は意地の悪い囁きを始める。女王が年若いデヴァルーを愛人にしたのは、恋人(ダドリー)を奪った女の息子だから。つまり、これは復讐なのだと。


「デヴァルー、しばらく屋敷に戻れ。呼ぶまで出仕はならぬ」


 この女王の命令は、すぐに根も葉もない噂を呼ぶことになった。デヴァルーへの寵愛もこれまで。義父と同様に、彼にも破滅が訪れたと。そんな醜い妬心が渦巻くのがこの宮廷だった。


 しかし、その場を後にするデヴァルーの足取りは、いつもより弾んでいた。まるで権力の喪失など興味がないかのように、ずいぶんと嬉しそうに見えたのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ついに読み始めました。なんという格調の高さ! 大河歴史小説の趣があふれるスタートですね。 私、恥ずかしながら本当に歴史を知らないので(自作品で女王の側近にダドリーって命名するほど無知)、お…
[良い点] >父親は女王の恋人。母親は女王の従姪いとこのむすめ。 この冒頭だけで、うわぁ……となりますね(-_-;) >女王がデヴァルーを側に置くのは、恋人を奪った女の息子だから。つまり、これは…
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