◆前編 「人を呪えば身を呪う」
『ヘレナよ。時間が無い。すぐに逃げなさい。』
「マスター・ウィズダム?」
この日もヘレナは大神殿の森で日課の薬草採取をしていた。そんな中、守護聖霊ウィズダムが突然そう伝えてきた。
なぜ?どこに?と尋ねた返事が来る前に、ヘレナを呼ぶ声がした。
「ヘレナ様!」
「ロベルト。サリタも。」
「今すぐお逃げ下さい。私共がお供いたします。」
「え?どうし…」
訳を話す間も惜しいと、二人はヘレナを連れて森の奥へ歩き出した。
「マーガレット様に毒が盛られたのです。幸い命に別状はございませんが、その毒を盛った嫌疑がヘレナ様にかかりました。」
「え!?うそ!」
マーガレットはヘレナの従姉妹である。ヘレナはパリオット侯爵家に生まれ、幼い頃に母、そして数年前に父を亡くした。直系の子女はヘレナのみだったが成年になる前であったため、侯爵の爵位は父の弟、ヘレナにとっては叔父に当たるオーガストが継いだ。叔父の一家が侯爵邸に移ってくると、ヘレナは聖女修行と称して、追い出されるように大神殿に居を移させられた。態の良い厄介払いである。
その実、母も父も叔父のオーガストによって殺されたとヘレナは後から知った。知らされた当時は憤ったが、時間が経ち落ち着いてからは、あの家を出られて良かったと思っていた。今なら分かるが、あのままあの家にいたら子どもの自分も殺されていたかもしれないのだ。
「でも、私は犯人じゃないわ。」
「存じております。しかしそんな事は関係無いのです。彼らはヘレナ様に罪を着せて亡き者にしたいだけなのですから。」
“マジで?!めっちゃ海外サスペンスドラマの展開じゃない!”
のどかな田舎町の昼下がり、町外れの森の入り口にある石造の一軒家。納屋を改造した部屋の棚には乾燥させた薬草が並び、室内には独特な香りが漂っていた。その部屋に置かれた簡易ベッドの上に小さな女の子がちょこんと座って、大人しく怪我の治療を受けている。その様子を若い母親は心配そうに見守っていた。
「はい。これでいいよ。無理はしないでね。」
「ありがとう、おねえちゃん。」
小さな女の子の足に巻かれた包帯は痛々しいが、本人は至ってけろりとしている。
「ありがとうございます、巫女様。これ、少ないですがうちで採れたんです。」
「え、美味しそう!お気遣いありがとうございます。それから、私のことはエレーヌと呼んでください。」
女の子の母親は、治療をした女に礼を言いながらトマトを差し出した。もらったトマトを控えていた少女に渡し、女は母親に手のひら程の包みを手渡した。
「まだ痛みが出るようでしたら、これを貼り直してください。数日で良くなりますよ。」
「何から何までありがとうございます。」
門扉まで見送り、バイバイと小さく手を振る女に、若い母親と娘の親子は、何度もお礼を言いながら帰っていった。
「あんたが聖女かい?」
親子と入れ替わるようにやってきた労務者風の男が、不躾に女に話しかける。
「…違うけど。」
「まあ、何でもいいや。あんた、噂以上にべっぴんだな。」
下卑た笑みを向ける男に、女は眉を上げて一瞥する。
「用がないなら帰って。」
「そんなこと言うなよ〜。仲良くしようぜ〜…おわっ!!」
そう言って男は女の腰に手を回そうとする。
女はスルリと身を躱し、男の手首を両手で掴みクイと捻り上げた。男は堪らず膝をつき地面に這いつくばった。
「イタタタ!何すんだ…うぐっ!」
「何すんだはこっちのセリフだよ!」
女は男の頭を踏みつけて啖呵を切る。
「ちくしょう!覚えてやがれ!」
「忘れるに決まってるだろ!おととい来やがれ!」
手を離されてなんとか起き上がった男は、女の殺気に怖気付いて捨て台詞と共に逃げて行った。女は全身を軽く払い、家に戻った。
「ヘレナ様、お疲れ様でした。だいぶ慣れましたね。」
「ありがとう、サリタ。貴女に教えてもらったおかげ。相手が見かけだけの素人だったから上手くいったわ。」
若い母親に巫女と呼ばれた「エレーヌ」こと、ヘレナは、サリタに淹れてもらったお茶を飲んだ。彼の国から脱出してから、ヘレナはエレーヌと名乗っている。
「あ〜生き返る〜!」
この国のお茶といったら一般的にはカモミールティーのことをいう。これに蜂蜜を入れたのが、ヘレナのお気に入りだ。
「…あれって、馬の蹄の音?」
「…そうみたいですね。」
近付いてくる規則的な蹄の音に、ピリピリと二人の緊張が高まる。
「取り敢えず私が様子を見てきます。」
「ええ、お願いね。」
音はこの家の前で止まり、程なくして家の扉が叩かれた。
「すまないが尋ねたいことがある。ここを開けてくれないだろうか。」
二人は顔を見合わせ頷くと、サリタは恐る恐る扉を開いて顔を覗かせた。ヘレナは一旦鏡の前で自分の栗色の髪を整える。
「何か御用ですか?」
「突然申し訳ない。こちらに『聖女』がいると聞いて来た。御目通りを願いたい。」
「…えっと…聖女?ですか?」
「どうしたの?」
聞き覚えのない男の声だったので、ヘレナは様子を確かめるためにサリタに声をかけた。
「この方が、聖女様を訪ねて来られたと。」
「貴女が『聖女』か?」
「…違いますけど、どちら様?」
サリタと入れ替わったヘレナは、その男を見上げた。
「この辺りで『聖女』と呼ばれている人がいると聞いてな。貴女はご存知ではないか。」
“この人、名前を名乗らなかったわね。”
この男、町の人々が着ているような簡素なシャツにズボン姿で、野暮ったく見えそうなものだが、全身に漂う洗練された空気は隠しきれていない。加えて彫りの深い端正な顔立ちなら、こんな田舎ではとっくに噂になっていただろう。つまりは、昨日今日都会から来た人間だろう、と当たりをつける。
考える振りをしながら眉を寄せ、視線をさっと動かし前庭に大人しく繋がれた馬を見ると、やはり思った通り毛並みが良く、よく手入れされた軍用馬だった。
武芸で鍛えられたであろう身体を見るに、恐らくこの男は騎士だと思われる。それも貴族、または高位軍人の。今のところ見た限りでは、この男は一人で来たようだ。もちろん油断はできないが。
ヘレナはなんでも無い風を装って、にっこりと笑顔で男を見上げた。
「さあ、存じ上げないですね。本当にこの辺りですか?」
「ああ、町の人達に聞いたらこの辺りだと。」
“ああん!もう!みんなに口止めしておけば良かった!”
ヘレナはこの辺りで神官のような診療をほぼ無償で行っていたため、町の人からは「聖女」とか「巫女」とか好きなように呼ばれていた。
「そうなんですか。でもすみませんが、本当に知りません。」
「…そうか。邪魔をしたな。」
男は意外とあっさりと諦め、馬に戻ろうとして、井戸のところで足を止める。
「申し訳ないのだが、馬に水をもらっても良いか?」
「ええ、構いませんけど。」
ヘレナはほんの一瞬だけ彼の意図を勘繰ったが、間髪入れず了承した。そしてすぐサリタに声を掛ける。
「悪いけど、水桶出してもらえる?」
「はい!お嬢様。」
「ああ、いい。私が汲もう。」
サリタが井戸の水を汲もうとすると、男は釣瓶に手を伸ばした。
彼が軽々水をくみ、水桶にジャバジャバ水を注ぐと、馬は美味しそうに水を飲んだ。
“…綺麗…。”
水飛沫が陽の光に反射してキラキラと光る中に、騎士らしき男が毛艶の良い黒毛の馬に水をやる姿は、まるで一枚の絵画のようであった。
「では失礼する。」
男が馬に乗って見えなくなるのを確認すると、ヘレナは踵を返して家に駆け込む。
「サリタ!荷物をまとめるわよ!」
「はい!」
「ロベルトはまだ戻らない?」
「そろそろ戻る頃だと思います。」
「じゃあ、戻り次第準備をするように伝えて。」
「わかりました!」
ヘレナは以前『聖女』と呼ばれていたが、身に覚えの無い罪を着せられ、捕えられる前に国外へ逃亡した。その時手を貸してくれたのが、当時大神殿で働いていたロベルトとサリタの親子である。
元々ヘレナはダセントラル王国の王子パリスの許嫁であった。今は従姉妹のマーガレットがその座にいる。
夜半過ぎ、家々の灯りも消えた頃、外套のフードを深く被り顔を隠した三人が、静かに家を出た。
「足元にお気をつけ下さい。」
「ありがとう。大丈夫よ。」
思っていたよりも月明かりが明るく、三人はそれぞれフードを目深に引き下げ、木戸口から外に出た。
「失礼。このような夜中にどちらまで?」
「!」
不意に声をかけられ、三人はピタリと立ち止まる。
今日の昼間に聞いた声だ。ヘレナは盗み見るように、フードの下から声の方を覗いた。相手の顔はよく見えないが、シルエットからも彼の放つ空気感からも、昼間に訪ねてきた男に間違いない。さらに悪いことに、彼の後ろには二人の人影がある。
「…急ぎの用で朝一番に着くように、隣町まで行くことになりましたの。」
「そうでしたか。ですが、こんな夜遅くに徒歩で行かれるのは危険です。よろしければ私達が隣町までご一緒しましょう。」
「いえ、それには及びませんわ。この先で護衛の方々と合流しますので。(嘘だけど)」
「でしたら、そこまでご一緒しましょう。ちょうど馬車もございます。
明らかに貴族のものと思われる黒塗りの立派な馬車が、目の前に横付けされた。
「お心遣いは感謝いたしますが、私共はそのような身分ではございませんので、こんな大層な馬車には乗れません。歩きますから大丈夫です。さ、行きましょう。」
ヘレナはそう言うが早いか向きを変えて歩き出そうとすると、パラパラと何人もが行手を塞ぐように現れた。ロベルトが咄嗟にヘレナを庇うように前へ出る。
“まずいわね。”
「『聖女』様。」
真剣な声色にドキリとしてヘレナは思わず振り向くと、昼間の男はいきなり彼女の前に跪き、首を垂れた。
「!」
煌々と輝く月が辺りを照らし、周りを囲む森の木々は漆黒の闇の影を落とす。それらを背景に跪く男が、何故だかとても美しく思え、一瞬警戒していることも忘れて、ヘレナはただこの光景に目を奪われた。
「このような無礼をお許し下さい。どうかお力をお借りしたいのです。」
彼の声に我に返る。
「いやだ、と申し上げたら?」
「できれば手荒な真似はしたくありません。」
少し威圧の籠った言葉に、彼の本気が読み取れた。自分だけならまだしも、ここまで手助けしてくれた彼らをこれ以上危険に晒したく無い。今にも斬りかかりそうな二人を背に、ヘレナは緊張で強張りながらも相手の様子をじっと窺った。
「…用が終われば帰していただけますか?」
「お嬢様!」
「…ええ。もちろんです。」
「…わかりました。参ります。」
男はホッとした顔を見せて立ち上がり、ヘレナを馬車までエスコートする。
てっきりヘレナ一人で済むと思ったのだが、是非にと半ば強制で三人は馬車に乗せられ、周りを馬に乗った騎士に囲まれて出立した。
「どこへ連れて行かれるんでしょう?」
「夜中だから、そう遠くはないと思うんだけど…」
馬車の窓から見える景色は夜の闇で見えず、どこへ向かっているのか分からない。どうやら月も隠れてしまったようだ。
「申し訳ございませんヘレナ様。気付くのが遅れました。」
「仕方がないわよ。私だって分からなかったもの。」
“ロベルトにも分からなかったって、相当の腕前を持った人達なのかも知れないし。それに守護聖霊も何も言ってこないから、差し迫った命の危険は無いはず。”
それでも緊張で睡魔も訪れないまま、夜明けを迎える頃に巨大な城塞に到着した。
「ここは…」
馬車の扉が開き、男が手を差し伸べた。
「どうぞ。」
「…ありがとう。」
「我が城へようこそ。私はこの城の主、ヘラルド・フォレスタルです。」
城の使用人と思しき一群が、恭しくヘレナ達を出迎えた。
フォレスタルといえば、この国の辺境伯爵だと以前ロベルトに聞いた。そしてヘレナ達の住む町を含む、この地域一帯の領主である。
ヘレナ達は随分と豪華な応接間に通され、しばらく待つように伝えられた。貴族であった時の服装ならまだしも、今は平民の衣服で、しかも旅装なので、この場に全く不釣り合いだ。そのため高そうな応接ソファーにも座れず、三人で立ち尽くしていた。
「遅くなってすみません。」
そう言って城主ヘラルドは部屋に入ると、三人が到着した時のまま所在なさげに立ち尽くしているのを見て、少し驚いたように眉を上げた。
「大事な話がありますので、どうか座ってください。」
状況を察して座るように促し、自らもその向かいに座った。
結局、ヘレナだけソファーに座り、ロベルトとサリタはヘレナを守るように後ろに立った。
「来て頂いたのは、『聖女』様に診ていただきたい人がいるのです。」
「…あの、昨日も申し上げましたが、私は『聖女』ではありません。」
「聞いたところによりますと某国で聖女だった方が、三ヶ月ほど前、行方知れずになったそうです。」
後ろの二人に僅かな緊張が走った。ヘレナは視線でそれを制す。
「そうなんですか。それと私と何か関係が?」
「貴女方があの町にいらしたのは二ヶ月ほど前でしたね。某国からこの辺境まで、ゆっくり見積もって一ヶ月ほどあれば着くでしょう。」
「…お調べになったのですね。」
「ええ。これでも一応この地の領主ですから。」
「…それで、私達をどうするおつもりですか?」
肝心なのはここからだ。正直、相手の態度から、自分達の素性をある程度掴んでいるだろうことは予想していた。それで某国との取引材料に自分が使われるのか、それとも『聖女』として利用価値があると判断したのか、後者ならまだ良いが、前者ならばまずい。自分の死に直結する上、逃亡の手引きをしてくれた人達も無事では済ませられないからだ。
ロベルトとサリタの二人は、大神官から何かあった際には秘密裏にヘレナを逃すよう、事前に指示されていた。
ロベルトは海を渡った向こうのシュロエステ王国の出身で、そこまで逃げれば簡単に追っ手も来られないだろうと大神官は考えたのだ。
ヘレナの守護聖霊のお陰もあって、無事ロベルトの母国に辿り着き、さらに王都から離れた国境付近に腰を落ち着けた。
ヘレナはエレーヌと名を変え、サリタの亡くなった母の妹として、ロベルトと三人家族という触れ込みで町外れの家に暮らし始める。
「ご心配には及びません。ご希望でしたら貴女方を保護します。ただ、聞いて頂きたいことがございますが。」
ヘレナは少しホッとした。ヘラルドの目を見る限り、嘘を言っているようには見えない。というよりヘレナは人の嘘が見抜けてしまう。実際には「嘘を見抜く」とは少し違って、腹に持っている本心と口にしている内容が同じでないと、違和感で気持ち悪くなってしまうのだ。
「お話次第ですが、私でお力になれるのであれば。」
「…!っありがとうございます!」
ヘラルドは一瞬悲痛な表情を浮かべ、すぐに泣きそうに顔を歪めて礼を言った。
“この人こんなに正直で、大丈夫かしら?”
思えば初めて会った時から彼は、見た目のわりには素直な人だなと感じていた。そんな人が貴族で城主というのだから、魑魅魍魎の跋扈する貴族社会で彼がやっていけるのか、ヘレナはつい心配してしまうのだった。
話をするより、実際に見てもらった方が早いと、ヘレナ達は別室に案内された。そこは花柄の可愛らしい壁紙やパステルカラーのカーテンや調度品が設えてある、女の子らしい部屋だった。フリンジのたくさん付いた天蓋の下に、小さな女の子がすやすやと眠っていた。透き通る肌は青白く、血の気が無い。綺麗にしてもらってはいるが、痩せ細っていて健康状態が悪いことは一目瞭然だった。
「姪のルビーです。亡き兄が唯一残した宝物です。」
そう言うヘラルドの目には悲しみと愛おしさが滲み出ている。
ベッド脇の椅子に座って看病していた侍女が、立ち上がって席を譲る。ヘラルドはヘレナにその椅子を勧めた。ヘレナは躊躇いながら、その椅子に座った。
「半年ほど前、先代辺境伯夫妻、ルビーの両親が事故で亡くなりました。その時に彼女も巻き込まれたのですが、二人に庇われて一命を取り留めました。ですが、その事故以来ずっと目覚めません。医者に見せたところ、既に怪我は治っているが目覚めない原因がわからないと。しかも夜になるとうなされているようで、苦しそうに呻くのです。神官にも診てもらいましたが、一旦は良くなるものの、しばらくするとまたうなされてしまいます。そして未だに目が覚めません。このままでは体も精神も保って半年と言われました。」
ヘラルドはベッドのそばに跪き、ルビーの痩せこけた手をそっと握って祈るように自分の額に当てた。よく見ると、ヘラルドの顔には疲労の色が浮き出ている。兄夫妻を亡くし、姪だけでもなんとか助けようと、日夜奔走しているからだ。
ヘレナはブルッと身を震わせた。ここでは恐らくヘレナにしか見えていないが、ルビーの全身は透明な繭のような物で包まれていて、部屋は燻されているような灰色の空気が漂っていた。
“この寒気は何なの?”
『これは’呪い’だ。』
“マスター・ウィズダム、’呪い’ですって?!”
守護聖霊がヘレナの意識に話しかける。
『ああ。彼女の喉の辺りを見てごらん。今は小さくなっているが、灰色の塊が見えるだろう。何者かが故意によって植え付けた呪いの核だ。しかし、彼女の両親が彼女を守っているために昼間はこのように寝ていられるが、夜になると呪いの力が強まるので悪夢を見る。目覚めないのもそのせいだ。』
“そうなのね。じゃあなんとかなるかも。”
「フォレスタル閣下、お人払いをお願いいたします。」
ヘレナがヘラルドに向かって毅然と言うと、城の使用人達は動揺を見せた。それはそうだろう。ヘレナが本当に信頼できるのか、彼らにはまだ分からないからだ。しかし、ヘラルドは直様彼らに部屋を出るよう指示した。ヘレナはロベルトに何事かささやくと、ロベルトも部屋の外に出て行く。
残ったのは寝ているルビーと、ヘレナとサリタ、そしてヘラルドの四人だけ。
「少し失礼します。」
ヘレナはサリタと共にルビーの部屋を歩き回った。
「何を!?」
そして、鏡の裏、ベッドの下、引き出しの中から、呪い符を見つけ出し、ウィズダムの指示通りに剥がし取った。
「ご覧の通り、お嬢様は何者かに呪われています。どうやらこの城に内通者がいるようです。」
「なんだと!」
「しっ!お静かに!一応扉には遮音の結界を張っていますが、簡易ですので大きな声は隣の部屋に漏れてしまう可能性があります。」
「すまない。つい、動揺してしまいました。内通者を捕らえて黒幕をはかせなければ。」
「今、ロベルトが使用人達をそれとなく見張っています。内通者は私が来たことを真犯人に報告するでしょうから、まだ泳がせておいた方が良いですね。」
「…そうですか、わかりました。それで我々はどうしたら?」
「私はこのまま夜を待ちます。いくつか準備することがございますので、お手伝いをお願いしてもよろしいでしょうか。」
「ええ、もちろんです。」
「ああ、そうだ、その前に。」
ヘレナは動きを止めてヘラルドの方を振り返った。
「こちらのお城には聖堂かそれに類似する施設はございますか?」
「ええ。城の南西に聖堂がありますが。」
「先にそちらを見せていただいてもよろしいでしょうか。」
「もちろんです。私がご案内いたしましょう。」
そう言うと、ヘラルドは使用人らを呼んだ。
「こちらは執事長、そしてメイド長です。二人とも先先代辺境伯爵、私の両親の頃から仕えてくれている信用のおける者達です。それから彼らは辺境警備の騎士達です。私に忠誠を誓ってくれています。」
ヘラルドがヘレナに紹介すると、彼らは迷うことなく頭を下げた。
先程の「内通者」を念頭に置き、ヘラルドが本当に信頼のおける者達を厳選したようだった。
執事長とメイド長、それとサリタを部屋に残し、部屋の外では二人の騎士に守らせ、ヘレナとヘラルドは護衛の騎士を一人付け聖堂に向かった。
“わあ、素敵!”
ゴシック調のアーチが天井を這い、万華鏡のような幾何学模様を作り上げる。
その聖堂は静寂が支配していた。祭壇には天窓からまるでスポットライトかのように一筋の光が当たり、そこに神が降り立っているかのような錯覚を覚える。
ヘレナはぐるりと聖堂内を見回した。
「フォレスタル閣下、先代の霊廟もこちらに?」
「ええ。こちらに名が入れてあります。」
回廊の壁面には代々の領主の墓石があり、その一つに彫られた真新しい墓標の前で、ヘレナは跪き、祈りを捧げた。
薄暗い回廊で祈るヘレナの姿は絵画に描かれる美しい聖女そのもので、僅かに差し込んだ光がヘレナの横顔を照らす。さらりと解けた髪の毛は、栗色のはずなのに、キラキラとプラチナの光を放っていた。
ヘラルドは何故かその姿から目が離せず、時が止まったように彼女に見入っていた。
「…フォレスタル閣下?どうかなさいましたか?」
呼ばれてハッと我に返ると、ヘレナが祈りを終えて、こちらに向かってくるところだった。
「ああ、いや、その、ちょっと疲れていたみたいで。」
「そうでしょうね。戻ったら少しお休みになった方が宜しいですわ。昨夜から寝ていないのですもの。」
「そうでした。いつもならこのくらいは大したこと無いのですが、聖女様がいらして…その、なんというか…気が抜けたようです。」
「…その聖女様って止めていただけません?エレーヌ…いえ、ヘレナとお呼び下さいませ。」
ヘレナはこの国に来て名乗った名前ではなく、本当の名前を伝えた。これから行うことは、ヘラルドがヘレナに信頼を置いてくれないと成功させることが難しくなるからだ。
「ヘレナ様。私のことはヘラルドと。」
ヘラルドはほぼ無意識でヘレナの手を取り、目を輝かせながら胸の前で握りしめた。
「ヘラルド様…」
“なんなの?!この人も聖女崇拝者?!”
以前いた大神殿でも時々、狂信的に聖女を崇める信者がいたのを思い出す。流石に自分より身分の高いヘラルドの手を振り払えなくて困惑していると、護衛の騎士がそっと止めてくれた。
「し、失礼!」
“私がヘラルドから守られてどうするのよ。”
ヘラルドは自分の所業に気付いて、慌ててヘレナの手を離した。
“まあ、イケメンを至近距離で見られて、眼福だったから許す。”
ヘレナはにっこり微笑んで受け流した。
「ヘラルド様。先に一つお伺いしたいことがございます。」
「なんでしょう。」
「なぜ、ヘラルド様は私の言うことを疑わないのですか?先程ルビー様のお部屋にいた時もそうです。私が悪意を持って貴方様に嘘をついているかもしれないのですよ。」
ヘラルドは驚いたようにぱちくり瞬きする。
“あんな細工、しようと思えばいくらだってできるもの。”
普通ならこんな怪しいことを始めれば誰だって疑う。神殿にいた頃だったら会うのは主に信者なので、初めからこちらを疑うことはほぼ無い。しかし今のヘレナは神殿に関わりのないただの平民だ。ヘラルドはヘレナを『聖女』だと言っているが、実際にそれを証明するものは無い。
「…随分と正直な方なんですね。」
ヘラルドは何故か嬉しそうに微笑んだ。
「実は、貴女のことはある方が教えてくださったのですよ。」
「ある方?」
「ええ。よくご存知の方だと思います。」
ご存知のある方。ヘレナは微妙に嫌な予感がした。
「…その方が私をなんと?」
「貴女の居場所を教えてくださいました。」
「…!」
不確かな情報を集めて『聖女』らしき人を探していたのだとばかり思ったのだが、始めからヘラルドはヘレナだとを確信と裏付けがあったのだった。
“あまりにも素直な態度が出てしまうから、詐欺に引っかかりそうで心配したけれど、やっぱり腐っても城主なのね。”
ヘレナは相手に大分失礼なことを考えながらも、少なくとも聖女を妄信したり、逆に聖女に拒否反応を起こしたりしなさそうだと安堵する。先程騎士がヘラルドを止めに入ったように、他人の忠告も聞くだろう。
「では、ヘラルド様。幾つか用意していただきたい物がございます。」
一旦別室で仮眠を取った後、ヘレナ達は白いローブに着替えた。神殿にいた頃の聖衣だ。
それからルビーの寝室を隈無く用意してもらった白いシーツで覆う。さらにベッドの四隅、足の真横に、雪の結晶のようなマークが描かれた白い四角のカードを置いた。
『ヘレナ。今回は、彼の力も借りられるかもしれない。』
“え?そうなんですか?”
準備中にウィズダムがそう話しかけたので、ヘレナはピタッと動きを止めて、彼、ヘラルドの方をチラリと見た。彼は白い騎士服に着替えて、騎士達に指示を出していた。
“彼、何かあるんですか?”
『ああ、恐らく。君も気付いているんじゃないかな』
“私も?”
ヘレナにはすぐに思い当たることが無く、思わず首を傾げた。
深夜0時を回った頃、眠っているルビーの顔にフツフツと汗が浮き出てきた。そしてだんだんと苦しそうな表情を浮かべる。
「…ルビー…」
「……………」
ヘレナはルビーのベッドのすぐ横に座り、手を組んで目を閉じ、小さく祈りの言葉を呟き始めた。それに合わせサリタも、ヘレナの後ろに立ち、小さな像のイコンを持って、同じ言葉を唱える。
「!」
「ぐがあ゛あ゛あ゛あ゛ぁっ!!!!!」
ゾワッと全身に鳥肌が立つほど、室内の温度が急激に下がる感覚があったかと思うと、突然、ルビーが弓形に体を逸らせながら野獣のような叫び声を上げた。
「ルビー!!」
ヘラルドは彼女に近付くが、激しく暴れるため手が出せない。ヘレナとサリタはなおも唱え続ける。
“しつこいわね”
ルビーはなおも激しく身を捩らせ、苦しそうに叫び続ける。ルビーの中に居着いている灰色のモノが、彼女の身体から離れまいと必死に抵抗しているのだ。
“このままだと彼女が怪我しちゃう”
ベッドからは落ちないように結界を組んであるとはいえ、いくら最終的に助けるとしても、ルビーに無用な怪我を負わせたくはない。ヘレナは祈りを呟きながら、ジリジリ焦りを募らせていると、暴れるルビーの手をヘラルドがなんとか捕まえた。
『来るぞ!』
「!!」
次の瞬間、ヘレナがパッと目を開くと、ルビーの口から黒い煙のようなものが立ち上ってきた。
透かさずヘレナはその煙に揃えた人差し指と中指を翳し、叫んだ。
「怨敵退散っっっ!!!!!!」
「がああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
“決まった〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!”
黒い煙は叫ぶ人の顔のような模様を浮き上がらせ、室内中を暴れながら、スロー再生した音声のような低く歪んだ叫び声を上げて、ついに霧散した。
ヘレナは一人満足気に天を仰いで額を拭う。城の者達はヘラルドを始め、放心状態で立ち尽くしていた。
「…お…じさま?」
「ルビー!!!」
黒い煙が消え、ベッドの上で倒れ込むように横になっていたルビーが意識を取り戻した。そして薄らと開けた彼女の目にヘラルドが映り、掠れた声でなんとか彼を呼ぶ。
ヘラルドは人目があるのにも関わらず、大粒の涙をこぼし、ルビーを抱きしめた。
「ヘラルド様、こちらの水をルビー様に。少しずつ、ゆっくり差し上げてください。」
“知ってて良かった経口補水液よ。”
前世で市販のものが手に入りにくかった時に、家族の特に祖父のために作ったことがある。夏場は特に毎日というほど作った。
普通、取り憑かれた人などの浄化には少量の食塩を溶かした水を飲んでもらうのだが、今回はずっと絶食状態だったので、経口補水液にしてみたのだ。
「…おいしい…」
一気に飲み過ぎないように、とだけメイド長に伝えてヘレナとサリタは部屋を出た。
「お嬢様。」
ロベルトが戻ってくるところで会う。
「どうだった?」
「逃げようとしたので拘束しました。呪い返しの影響か、若干怪我をしたようですが。」
「ああ、すごかったものね。真犯人は生きてないかもしれないけど。」
「でしょうね。」
歩きながら物騒な話題をするが、幸いルビーが目覚めたことで城中てんやわんやで、彼らに注意を払うものは誰もいなかった。
「こちらです。」
ロベルトが倉庫のような部屋の鍵を開けると、中には手足を拘束された中堅どころのメイドが転がされていた。いや、意識を失って倒れている。カンテラの灯りをかざしてみると、彼女の顔半分は火傷の跡のように爛れていた。
『気の毒だが、彼女は自分のしたことの代償を受け取った。』
“あらまあ。情状酌量の余地は無かったんですか?”
『真犯人にこの城のメイド長に取り立ててやると言われて、積極的に手を貸していたようだ。』
“私利私欲のために、あんな年端の行かない子にまでなんて惨いことを。”
ウィズダムの説明を受けて、ヘレナは思わず顔を顰めた。
「お嬢様、この者はどういたしますか?」
「そうね。今はヘラルド様もルビー様のことでそれどころでは無いでしょうから、辺境の騎士達に預けましょうか。」
「かしこまりました。」
ロベルトに呼ばれた騎士達が数人、意識の無いままのメイド抱えて出て行った。
ヘレナ達は城の客室に戻ると、普段着ているラシャのドレスに着替え、一息ついた。
「お嬢様、それで、真犯人はどうなったのですか?」
サリタが借りた茶器でお茶を淹れながら、ヘレナに問いかける。
「詳しくはもうちょっと後からわかると思うけれど、さっき祓った呪いは随分と大きかったから、一気にその人に戻って…、まあ、あれだけの量なら普通命は無いわね。」
「そんな酷かったんですか。よくあんなに小さい子が一人で耐えられましたね。」
「うん。彼女の亡くなったご両親がずっと守っていてくれたから、眠るだけで済んでいたのよ。」
ヘレナが初めに見たルビーを包む透明な繭は、亡くなった先代辺境伯夫妻が掛けた結界だった。それに気が付いたヘレナは、彼女の両親に結界を解く許しを請う。そのままでは元凶がルビーの体から抜け出せないからだ。
無事両親の許しを得たことで、ヘラルドに断って聖堂にあるイコンを借り、ルビーの部屋に戻る。ルビーの透明な繭が消えていることを確認すると、彼女の額と両手足の先、さらに心臓の上に聖水を塗る。そしてベッドの四隅に雪の結晶のようなマークを描いた紙を置く。
部屋を清浄な白い布で覆い、害意のあるモノが居づらくなるよう、入念に準備した。
余談だが「怨敵退散!」は、ヘレナが前世で好きだった某漫画の主人公が、よく言っていたセリフで、前世の記憶が戻ってから絶対使おうと思っていたのだ。つまり、ヘレナ個人の趣味である。
「そうでしたか。兄たちが…」
夜が白々と明ける頃、ヘレナの元へ、ヘラルドがやって来た。寝ていないのに昨日よりも随分と顔色が良い。一旦休まれてからお話を、と言ったのだが、興奮状態で眠れそうにないので、ヘレナが起きているのならと、訪れたのだ。
ちなみにヘレナは夜が明けるまでは油断をしてはいけないと、念のため起きていた。
“徹夜でハイになるってよくあったわね〜”
「徹夜でハイ」の内容は大分違うのだが、前世の学生時代を思い出して、一人しみじみ頷いた。
「ヘレナ様?」
訝しげに見るヘラルドに、現実に引き戻される。
「あ、あの、様もいらないです。私はもうただの平民なので、呼び捨てで結構ですよ。」
“寝てなくてボロボロなのに、それがまた背徳的な美しさって、イケメンて得よね。”
「…ヘレナ?」
“うっわ!やばいやばい!イケメンやばい!鼻血吹く!!”
乱れた髪が顔にかかり、少し顔を赤らめてヘレナを呼ぶヘラルドに、ノックアウトされそうになった。
ルビーにかかっていた呪いは、術者にキッチリ戻っていた。
「ぎゃあああああああああ!!!!!」
王都に住むとある貴族令嬢が、深夜、断末魔の叫びを上げた。駆けつけた家の者が見たのは、全身焼け爛れて素顔もわからなくなった女の姿であった。彼女は命は取り留めたのだが、これではもう外に出ることも人に会うこともできない。自慢だった波打つ金色の髪は半分以上抜け落ち、白い肌は赤黒く変色した。医者や薬師、神官にも治療を頼んだが、普通の火傷とは違い、治すことはできなかった。守護聖霊の言う「自分のしたことの代償」であった。
そもそもの発端は王都の夜会で、彼女が当時王都の騎士だったヘラルドに懸想し、どんなにアプローチしてもなびいてくれないので、どうにか彼を手に入れようと、呪術師に相談したことにある。
「そのお方を手に入れるだけでよろしいのですか?」
「え?それはどういう意味?」
「どうせなら辺境伯爵夫人の座も手に入れた方が宜しいのではありませんか?」
その当時の辺境伯爵はヘラルドの兄。ヘラルドは領地に戻れば兄の手助けをするが、普段は一介の騎士。貴族令嬢は呪術師の甘言に乗り、彼を使って、当時の辺境伯爵夫妻とその娘ルビーを亡き者にしようと呪いをかけた。更にヘラルドには魅了洗脳の呪術をかけようとしたが、彼には何度やってみてもなぜか効かなかった。
斯くして辺境伯爵夫妻は事故で亡くなり、ルビーは意識不明。急遽ヘラルドが辺境伯爵位を継いだ。そして予てより買収しておいたメイドを使ってヘラルドに一服盛り、彼女の意のままにしようとしたが、やはり彼に関しては全く上手くいかなかった。薬を盛ったお茶はこぼされ、仕掛けた罠はスルーされ、始めは気付かれているのかと疑ったくらいだ。
件の令嬢が業を煮やしているうちに買収したメイドから、ヘラルドが若い女を城に連れて来たと連絡が入る。令嬢は焦り、その女も呪い殺すよう、呪術師を呼び出した。
その最中、ルビーに掛けた呪いが返り、全身に大火傷を負う。
彼女を唆し、実際に手を下した呪術師は、彼女のところに向かう途中、呪いが返って業火に焼かれた。王都の裏通りでかつて呪術師だった者の黒焦げ死体は、翌朝、街の人々によって発見された。
このことをヘレナ達は呪いの痕跡を辿って知ったが、ヘラルドには伝えていない。怨みの連鎖を引き起こす可能性があったのと、何よりヘラルドが、兄夫婦の死が自分の所為だと、自責の念に駆られるかも知れないと考えたからだ。
“そっか、わかった!”
ヘレナはぼんやりヘラルドとルビーの話す様子を見ていて気が付いた。ヘレナがヘラルドを見るたびに「綺麗だ」と見惚れてしまったのは、彼の周りで光っているこの土地の自然精霊達の所為だ。ヘレナには見えていたが、彼自身は気付いていない。ヘラルドは恐らく自覚は無いのだが、自然精霊に愛されている。それで呪いを受けなかったのだ。
“別に彼自身に見惚れたわけじゃないわ。イケメンだけど。”
「お姉様?」
「ヘレナ?」
ルビーのまんまるな目と、ヘラルドの切れ長の目が、ヘレナを捉えた。うっかりルビーとヘラルドの前で思考が飛んでいたヘレナは、へらりと曖昧に笑って誤魔化した。
呪いが解けてから2週間。ルビーもベッドから起き上がれるようになり、最近はリハビリも順調だ。
彼女はヘレナがたまたま作っていた薬が効いて、自分が良くなったと聞かされていた。ルビーは是非ともお礼をしたいと言ったが、ヘレナは丁重に辞退した。
「本当にルビー様を守ってくださったのは、亡くなったご両親ですよ。」
この時ルビーは、両親が亡くなって以来初めて、人前で泣いた。
取り縋って泣きじゃくる彼女の背を、ヘレナは優しく撫でて、両親の愛がルビーを守ってくれていたのだと訥々と説明した。
「…正直、ルビーがあんな風に泣くなんて、思いませんでした。」
ルビーの部屋を出て、ヘラルドの「ご一緒にお茶でも」との申し出に、ヘレナはその誘いを受けた。
「でも考えてみれば、あの子もまだ幼い。両親の温もりが欲しくて当然かもしれません。」
「そうですわね。周りの皆様が支えてあげてくださいませ。」
ヘレナがそう言うと、ヘラルドはなぜか物言いたげな視線をよこした。
「ところでヘラルド様、私達はそろそろお暇いたしたいと存じます。」
「え!?ここを出て行くと?!いや、しかし!」
「ルビー様ももう心配はございません。それにヘラルド様もお城の皆様もいらっしゃるから、心の傷も徐々に癒えるでしょう。」
「…でも、貴女方はあの家には戻られないのでは…?」
そう。ヘレナ達がヘラルドに見つかった際に住んでいた家は、あの日、引き払って別の土地へ行く手筈ができていた。
「ええ。またどこか違う場所に参ります。」
「ダメよ!行っちゃダメ!!」
「ルビー様!」
扉が音を立てて開き、ルビーが侍女に付き添われて現れた。
「ルビー様?!お休みになられたのでは?動かれて大丈夫なのですか?!」
「申し訳ございません。ルビー様がヘレナ様にどうしてもお渡ししたい物があると…」
お付きの侍女が恐縮して説明する。
「お願い!出て行かないでお姉様!」
ルビーはヘレナに抱き付いた。
「叔父様が嫌いになったの?それとも私がいるせい?」
「?なにをおっしゃっているのですか?別にヘラルド様もルビー様も嫌ってはおりませんよ?」
「じゃあ、どうして?どうして出て行くなんて言うの?!」
困惑したヘレナがヘラルドの方を見ると、彼の様子がおかしい。眉を顰めてじっと見つめると、ヘラルドはあからさまに視線を逸らした。
「ルビー様、私がいなくてももう大丈夫ですよ。」
仕方無くルビーの頭を撫でながらあやそうとすると、ルビーはガバッと顔を上げた。
「だって、お姉様は叔父様と、ご結婚するんですよね!?」
「はああ?!」
思わず素の声が出たヘレナはキッとヘラルドを睨む。
「…違うの?」
不安そうにヘレナを見上げるルビーの瞳に、思わず胸を突かれるが、いや、今はそれどころでは無い。
「ルビー様。私は少々ヘラルド様と大切なお話がございますので、お部屋にお戻りいただけますか?」
剣呑なヘレナの様子に、ルビーは何度も振り返りながら侍女に促されて渋々部屋に戻る。
「ヘラルド様?これは一体どういうことですか?」
ルビーが部屋を出ていくと、ヘレナは姿勢を正してヘラルドを問い詰めた。
「…いや、その、ルビーに貴女との関係を訊かれて、つい、婚約者だと…」
「はあ?!」
ヘラルドはきまりが悪そうに視線を落とす。
「いや、しかし両親が呪い殺されたことは秘密だし、貴女が聖女だという話はできないし、かといって神官でもないし、それなのに未婚の女性が何故この城に滞在しているかと訊かれると…婚約者なら問題ないかなと…」
確かに、ヘラルドのいう通り、ヘレナが聖女だったという事実には箝口令が敷かれており、一部の者しか知らない。素性の知れない未婚の女性が、客人として独身男性の城に滞在するには、それなりの理由が必要だ。
「それにしても婚約者だなんて…」
「ルビーもとても喜んでくれて、今さら嘘だとは…」
ぺしょりと項垂れるヘラルドは、叱られた大型犬のようだ。
“いや!絆されないわよ!”
ヘレナは既に国外に出ているとはいえ、追われている身だ。前世にあったような国際指名手配犯の扱いを受けているわけでは無いにしろ、逃亡している事実には変わりない。
「…それに、貴女なら私も…」
「とにかく!」
ヘレナの張った声が、ぽそりと呟いたヘラルドの言葉にかぶった。
「ここでは人目が多過ぎます。私達は、静かな所で暮らしたいのです!」
「でしたら、森の狩猟小屋はいかがでしょう?」
「は?」
妙案を思い付いたと、ヘラルドが顔を上げる。
「森の入り口に狩猟小屋があります。少々手狭かも知れませんが、数人で住むくらいなら、問題無いと思います。」
「いえ、ですから、そういうことではなく!」
「それに森とはいえ、常に管理している城の敷地内ですので、見知らぬ者が入って来ることはありません。」
「…」
だんだん身を乗り出して食い気味に話すヘラルドと鼻を突き合せそうになって、ヘレナはそっと身を引いた。
「私の目の届く所にいらっしゃれば、お守りすることができます。」
「…!それは貴方や周りの方々が危険です!」
「ご心配は無用です。私はこれでもこの国で騎士団師団長を務めたこともありますから。」
この若さですでに師団長を務めていたとなれば、おそらく出世コースだ。爵位を継がなければ、将来的に騎士団長も望まれていただろう。
しかしそうは言ってもヘレナを追っているのは、海を隔てた向こうの国とはいえ、国家権力だ。武力だけではどうにもならないこともある。
「…それに、既に幾つか手を打っておりますので。」
力強く微笑まれて、ヘレナは言葉を飲み込んだ。
『ヘレナ。彼は本当のことを言っている。信じてみても良いだろう。元々疑ってはいないんだろう?』
“わかってますけど…!”
無意識に守護聖霊に助けを求めていたようで、ウィズダムがヘレナに助言する。
「もしかして、他に行きたい場所があるんですか?でしたら、私がお供を…」
「無いですし!あったとしても供は要りません!」
「でも…」
“あああ!なんで食い下がるのこの人は〜〜〜!!!”
前世で「NOと言えない日本人」なんて言葉が流行ったことがあったが、NOと言っているのに、断れないのはなんでだ!と思うヘレナであった。