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5 十月 イメージを壊すのはワンショットで十分

 夕焼けに染まる廊下は、日向はちょうどいい温度で、日陰は肌寒いような、そんな場所だった。ひとけはなく、ぱたぱたと教室に戻る私の駆け足の音はよく響いた。


 忘れ物した忘れ物した。週末課題を忘れた!


 古典は週末ごとに課題を出される。短めの説話を集めた課題集を毎週一話ずつ読んでいくといったスタイルで。

 古典の先生は忘れても特に怒らず、その週の間に提出すればOKだけど、提出が遅れることを報告すると酷くしょんぼりするおじさん先生なので、みんな忘れないように心がけている。

 もちろん、私のその一人。



 誰もいないと思って、鼻歌を歌いながらガラッと教室を開けると、


「うぇっ!?」

「えっ?」


 ドアを開けたら変な声がしてびっくりした。教室にぽつんと一人残っていたのは、萩原くんだった。まさか人がいるとは。

 私は自分の口に手を当てた。


「もしかして聞いてた?」

「な、何をですか?」

「私の鼻歌」

「は、鼻歌……? き、聴いてないです」

「そうなの? 良かったぁ」


 ほっと息をついて教室に入る。萩原くんは小さく目線を逸らして「ぼ、僕がいてすみません」と。そんなにビビらなくてもよいのですよ、萩原くん。


「私、課題を取りに来たの。古典の忘れてて。萩原くんは?」


 机の中の、置き勉している教科書たちの間に隠れていた課題集を救い出して、私は萩原くんのほうを見た。

 萩原くんの机には日本史の教科書と見慣れないプリントがあった。一番上には『レポート』の文字。夏休みの課題は出してたはずだけど、これはもしや中間の?


「東條課題?」

「す、すみません」

「苦手なんだね、日本史」

「……す、すみません」


 夏休みテストに続いて中間テストまで東條課題を課せられるなんて。しかも未だ、レポート用紙の三分の一も埋まっていない。萩原くんは本当に日本史が苦手らしい。

 私はなんだかこの『すみません』ロボが気の毒になってきた。


「今日、友だちは? もう帰っちゃった?」

「いや、部活行ってまして」

「ずっと一人?」

「は、はい」


 ここで会ったのも何かの縁。日はまだ高いし、私は部活も用事もないし。


「私も一緒に考えよっか」


 前の席に座って、萩原くんの机に肘を置く。縮こまる上目遣いの萩原くんにニッと笑いかけた。


「安心して。何気に勉強してるんだよ? 私」


 なんたって、オール八十オーバーですから!




 内容は、日本古代史のラストを締めくくる摂関政治と中世史を幕開ける院政の比較。摂関政治と院政の理解と差異をまとめればいい。

 萩原くんはどこまで書けてるのかな。レポートを読んでいるとき、前から静かに息を呑む気配がした。なんだか、私まで緊張してきた。

 無音なのが、余計に。


「なんかBGMかける? 私ね、今この曲にハマってて」


 スマホを出してスイスイ操作する。再生、ポチっとな。軽快なバンドの演奏とはつらつとしたボーカルの声が教室に広がった。


「知ってる? これ」


 ボーカルの歌に合わせてほんの少し口ずさむ。これはサビから歌い出す曲で、最初から一気に引き込まれる。一度聞いたらやみつきになる曲だ。

 最初のサビが終わり、ふと顔を上げたら萩原くんが赤い顔で対応に困っていた。ハッと口を手で覆う。


「ごめんね。私、歌が下手で」

「い、いえ、すみません」

「でもねー、歌うのは好きで、つい歌っちゃうんだよね」

「あ、そうなんですか」

「萩原くんは歌ったりする? 選択科目なんだっけ」


 私やちあきは音楽選択だけど萩原くんは同じじゃないはず。ということは、美術か書道の二択。うーん、どっちもありそうだ。


「僕は、一応、書道で」

「そっかそっか。萩原くんの字、素敵だもんね」

「や、そんな。でも、その、歌うのは嫌いじゃないですよ」


 もごもご喋る声は音楽にかき消され、一番のサビに入る直前で一瞬静寂が訪れた。


「僕も、この曲、好きで」


 直後、かき鳴らすギターの音や力強いボーカルの声より、目の前から発せられる小さな歌声のほうが、とくんと胸に届いた。地声より少し高くて、少し震えた声で、メガネの奥の瞳も少し細められて。

 萩原くんが、ちょっとだけだけど、笑ってる。


 一番のサビが終わって、萩原くんの歌声が止む。気恥ずかしそうに肩をすくめる萩原くんを見て、ぱっと現実に戻った気がした。


「すご。萩原くん、歌も上手いんだね」

「えと、これは、広告で流れてたの見て、いいなって思って」

「そうそう。私も広告で知ったの。耳に残るよね」

「うん。……あ、いや、そうですね」 


 敬語じゃなくていいのに。

 レポートの文字を人差し指でなぞる。端正な文字、書き終わりの『である』。文章の世界では敬語じゃないのに。


「字も歌も上手いって、いいね。カッコいい」

「い、いえ、そんなことないです」

「そんなことあるよー。じゃ、この調子でレポートしよっか」

「よ、よろしくお願いします」


 ぺこっと頭を下げられた。真面目だなぁ、萩原くん。



 レポートを完成させ、ぐーっと伸びをする。中間で勉強した範囲ばっちりのところだったので、案外簡単に終わった。萩原くんが荷物の片付けをする間に、私は窓の施錠確認を済ませることにした。

 時刻は日が沈んで間もなくといったところ。だんだん暗くなるのが早くなってきている。夕焼けに手をかざして、オレンジと黄色を混ぜた色を見つめる。


 ふと視線を感じて振り向いたら、萩原くんが私に向かって頭を下げた。


「あ、あの、今日は、ありがとうございました」

「いえいえ。どういたしまして」


 言葉を返しても、萩原くんはぼんやり私を見たままで、メガネには夕焼けを背負った私が反射していた。


「何かあった?」

「……あ、いえ」

「うん?」

「その、やま、山城さんは、勉強できる人なんだなと思いまして」

「そこそこね。頑張ってるもん」

「あ、あの、なんか、すみませんでした……」

「えー、なんで謝るの」

「えと、僕が勝手に、その、勘違いしてまして」


「意外だな、と」。尻すぼみした弱々しい声だった。


 私に勉強できないイメージを持ってるというのはしょうがないな。髪染めてて、メイクしてて、大抵誰かと遊んでてて。ちあきたちにも、入学してすぐの頃に『勉強してなさそうだと思ってた』と言われたことがある。


「勉強はねー、別に好きなわけじゃないんだけど」


 でも、私は中学二年生のときにEmiemiを知って、メイクを始めて、世界の見方が次第に変わり始めた。

 Emiemiが彼氏との学力差のせいで同じ大学に行けないとショックを受けていたり、Emiemiが資格の勉強大変すぎると嘆いていたり。

 そういうEmiemiを近くで応援してきて、私は思ったのだ。


「コスメのこと知ったらメイクの幅が広がるみたいに、知識を色々身につけたらできることが広がるかなって思って頑張ってるの」


 勉強できたら好きな人と同じ大学にいけるかも、資格の勉強も苦じゃなくなるかも。


 今日、見事にその努力は報われた。

 課題は週末にやらなくても先生には怒られないから取りに来なくてもよかった。取りに来たとしても、萩原くんをスルーして帰ってもよかった。

 でも、私は今まで勉強してきて、それなりに学力に対する自信があったから。


「だから今回だって、ほら、レポート討伐手伝えた」


 これは間違いなく、私の日々の努力が生んだ、新たな道の一つ。


 萩原くんが手に持つレポートをばーんと撃ってみせると、萩原くんはおもむろに胸に手を当てた。じゃんけんのときも思ったけど、萩原くんは口調と真逆でノリがいい。

 思わず笑っちゃったら、萩原くんもふふっと柔らかい表情をした。あ、また笑顔見れた。

 



 廊下はすっかり全部日陰になっていて、どこを歩いても肌寒かった。早く帰らないと、と窓の外を見ながら歩いた。

 私と萩原くんは、お互い自然に、透明人間が一人か二人ほど入るくらいの間を空けて歩いていた。きっとこれが、今の私たちの距離。


 職員室への提出を見届けて靴箱まで来た、けれど萩原くんは履き替えようとしなかった。


「帰らないの?」

「僕はこれから部活に行きますので」

「そっか、美術部なんだっけ」


 美術部といえば、萩原くんと喋つていた女子がいたはず。


「そういえば、部活の人には勉強教えてもらわなかったんだね」

「その、点数低かったって言うの、なんか情けないなって思って、ですね」


 もじもじ俯く。京ならけらけら笑ってギリギリで赤点回避したテスト用紙見せてくるけど、いや、あれは京が変なだけか。

 私は一人外に向かった。残る萩原くんに手を振って。


「萩原くん、期末も部活も頑張ってねー。ばいばーい」

「や、山城さんもお気をつけてお帰りください」


 真っ赤になった萩原くんも、あたふたしながら手を振ってくれた。


 両手を振り回しても当たらないくらい、だけど話し声は聞こえるような、そういう萩原くんとの距離感は新鮮でなかなか面白い。

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