15 一月 お気に入りの香りが繋げる友だちの輪
今朝はお布団が離してくれなくて、ベッドの中でぬくぬく体を丸めていたら寝坊した。
髪を巻く時間がなかったので、ゆる巻きのないただのストレートヘアのまま登校。せめてものオシャレとして、先日お年玉で買った新作ヘアミストを振りかけて家を出る。
ローファーはしっかり履いた。リュックもきちんと背負った。よし、小町よ、駅まで走れー!
無事に電車に間に合い、いつも通りの時間に登校できた。にしても走った走った。これは自分にご褒美を与えなければ。お昼休みにお菓子でも買おうかな。
小さく鼻歌を歌いながら靴箱でローファーをロッカーに入れているとき、「おはよ」と声をかけられた。
「あ。京と大和、おはよー」
「朝からニコニコ上機嫌そうすね」
「今日はね、寝坊したけど遅刻しなかったからラッキーデー」
「そうか。おめでとうおめでとう」
「遅刻しないとか偉い。ほんと小町さん偉すぎ」
棒読みの雑な返しをされた。二人は時間に追われて電車が待つホームに駆け上がるドキドキを味わったことがないのか。と思ったけど、大和は時間にきっちりしてるし、京は寝坊した分の時間そのまま遅刻するタイプだった。
三人で階段を登って教室に向かうとき、京が私に言った。
「普段と髪型違うからテンション高いのかと思った」
「そういや髪がまっすぐだな」
「前髪しか整える時間なくてね」
一階と二階を繋ぐ踊り場で振り向く。遠心力でさらっと髪が広がった。そのとき、ふんわり漂う甘い香り。漫画ならふわぁんと丸い字体の効果音が付いていると思う。私は自分で自分にうっとりした。ヘアミスト、果てしなく良い香りがする!
二人ともわかった? もう一回香らせよう。今度は手で髪をなびかせてみせた。
「どうどう?」
「長くて大変そうだな。輪ゴムなら持ってるぞ」
「髪に自我がありそう」
私は二人をじとーっと恨みがましい目で見た。はいはい、わかりました。二人は良い香りとか興味ないんですね。そうだろうと思いましたよ。
「つか、今日は大和も機嫌いいんだよな」
「へえ。体育あるから?」
「だと思うだろ? そうなんだよ」
「やっぱりー」
E組目指して廊下を歩く。そのお供は京との身のない会話、と見せかけて。
「でもな、今日の体育なんだと思う?」
「さあ。テニス?」
「言ってやれよ、大和」
京は口調こそ得意げだけど、表情は真顔だった。むしろ絶望寄りのため息付き。大和を見上げると、フッと手で前髪をかき上げて爽やかな笑顔の大和と目が合った。
「聞いて驚け。今日は、持久走だ」
そのときの私は、あとで京から『ムンクの叫びだった』と言われた。私はあの絵と違って長くてサラサラの髪があるのに!
走るのは嫌いではないものの好きでもないというか。せめて好きな音楽を聴きながらなら楽しめそうというか。単純に走り始めるまでがしんどいというか。そもそも私、今日はすでに全力ダッシュ済みというか。
休み時間に着替えを済ませて髪をくくっていると、横でちあきが鼻をすんすんさせた。
「小町、良い匂いする。なんか変えた?」
「あ、わかった? 今日はね、ローズの甘めな香りのヘアミストなの。新しいやつ」
「好き、これ好き。いつものも好きだけど、これもめちゃくちゃ好き!」
「私も好き〜!」
耳より少し高いの位置で一束に結った髪をゆるゆる動かして香りを広がらせる。些細なところまで気付いてくれるなんて、さすがちあきちゃん! どこかの男子たちとは違う!
ちあきが好き好きと言ってくれたからか、他のクラスメイトも寄ってきて「良い香り〜」と言ってくれた。皆さん、このヘアミストに興味が湧いてきましたか? では、こちらをご覧ください。
「これ、Emiemiがオススメしてたんだよ。ほら」
私はみんなにスマホでEmiemiのSNS投稿画像を見せた。ボトルまで可愛いヘアミストでしょう。最高なEmiemiはセンスも最高なんです。
こまめなEmiemi布教も忘れずに。
持久走のコースは学校の外周を三、四周ほど走るというシンプルなもの。授業時間内に余裕で走り終えられる緩めの距離だ。
しかし、運動が苦手だったり嫌いだったりする人は厳しい距離かもしれない。例えば京のように。
「雨になれ雨になれ雨になれ」
「京介、諦めろ。空は快晴だ」
「何言ってんだよ、希望捨てんな。お天気雨を信じろ」
「往生際が悪いな……」
運動というより持久走が嫌いな京は、ずっとブツブツ唱えている。京に呆れる大和という構図を、私とちあきは軽いストレッチをしながら眺めていた。
私もさっきまで内心嫌だなーとは思っていたけど、体を動かし始めたら楽しくなってきちゃった。この程度、お茶の子さいさい。すぐに走り終えちゃえばいい。
太陽が元気にこんにちはと顔を出す中、持久走が開始された。
大和は好調そうに先頭集団とともに、京は無と悲しみの狭間にいる表情でゆったりと走り出した。ちょっぴりやる気のないちあきも遅めのスタートで、私が振り向いたら集団の後方にいる萩原くんが目に入った。
みんな、ほどほどに頑張ろー。
学校周りに植えられている生け垣に沿って走っていく。ペースは周囲を走っている子に合わせて。脳内で流すのは最近よく聴く曲。リズムに乗って一定のテンポで地面を蹴る。
集団で走るのは中学の部活以来だと思う。懐かしいな、この感じ。走るのも案外悪くない。今度ランニングでもしてみようかな。
ラスト一周というところで、走る速度が明らかに遅い人がまばらに見えてきた。最後尾に追いついたみたい。
何人か抜かしたのち前方を見て、私は違和感を覚えた。女子生徒が走ってはいるんだけど、変に見える。リズムがおかしいというか、ひょこひょこと片足をかばうように走っている。
……あ。もしかして、痛めた?
私はペースを遅めて、その子に近付いた。そっと声をかける。
「あの、大丈夫?」
「え」
驚いた表情で私を見たのは持岡さんだった。美術部の、萩原くんとよく話してる子だ。すぐさま不審そうに目を細めた。
「何、別に。ちょっと疲れただけ」
「足痛くない?」
間髪入れずに聞いたら、持岡さんはやや目を開いて私をちらっと見たあと目線を下に向けた。呼吸間隔は短く、一つ一つが重たそうだ。そして、つばを飲み込んで小さく呟いた。
「…………少し」
「先生呼んでくる。無理そうなら止まってて」
私はコースの途中に立っているコース監督の先生めがけて速度を上げた。私はもうすぐで走り終わるけど、持岡さんはあと残っているはずだ。痛いまま走り続けて悪化したら大変だから。
先生に持岡さんのことを連絡すると、先生が対応するので私はそのままゴールするよう言われた。持岡さん、大丈夫かな。
体育の授業が終わるとさっさと着替えて、私は持岡さんのところに行った。持岡さんも着替え終わり、他の友だちと話しているときだった。
「ねえねえ、持岡さん、さっきは大丈夫だった?」
「え、あー、うん」
「そう? なら良かった」
保健室に行ったのか、足首には湿布を貼っている。先生に診てもらって問題ないなら良かった。
自分の席に戻ろうとしたら、持岡さんの友だちがやってきた。
「何ー、市香。なんかあったの?」
「別に。私が捻挫したの先生に言ってくれたのが山城さんってだけ」
「あーね。びっくりしたぁ。だって、市香なんかが山城さんに心配されるって何かあったのかと」
そっか、普段話さない人が心配してたら、何事かと思っちゃうかもしれない。
持岡さんは平気そうにニコリと笑った。
「まー、確かに。山城さん完璧だもんね」
「ね。メイクとか毎日してない? うちらは絶対無理ー」
「やっててもみんな超うっすくだけどね。山城さんはフル装備ですごいよね」
「でもそれでモテてるからね〜!」
持岡さんは友だちとなんだか楽しそうに話しているので、お邪魔虫は古巣に戻ることにした。それでは持岡さん、お大事に。私は髪直そーっと。
お手洗いのパウダールームで髪型を整えていたら、持岡さんがおそるおそるといった様子で入ってきた。
「あの、山城さん」
「うん?」
「や、さっきはありがとう。先生に言ってくれて」
「んーん、全然」
鏡に向かって、折り畳みブラシで梳いて毛先を指でくるくるまとめる。うん、だんだんまとまってきた。ついでにメイクも少し直そう。
横では先程からずっと持岡さんがじっと私を見つめていた。あの、そんなに見られると照れるんですけど。
「何かあった?」
「えっ? あー、そう、そうだ。山城さん、メイク毎日しててすごいなーって思って」
今捻り出しました、みたいな話題の出し方だった。さっきまでメイクの話してたからか。
「慣れたら秒だよ、こんなの」
「いやいや、そんなことないでしょ。それに香水だっけ? そういうのもつけてるんでしょ?」
私は指を通してある自分の髪をすんと嗅いでみた。走ったあとだからか、ヘアミストの香りはあまり残っていないけれど、さらっと手で髪を払ってみせるとかすかに香った。
にまっと持岡さんにドヤる。
「良い匂いでしょ」
「まぁ、うん」
お、ご興味がありますか? それでは、ぜひこちらをご覧ください。私はスマホの画面を見せた。
「これはね、ヘアミストの香りでね、Emiemiっていう人がオススメしてたやつでね!」
ヘアミストの画像を拡大する。持岡さんは面食らったように目をまんまるにさせ、一呼吸置いたのちに「ふーん」と言いながらSNSのアプリを開いた。
なんと、本日初のEmiemi布教に成功! 私は感動した。
ぱっと見えちゃった持岡さんのホーム画面越しに、私はアイコンに描かれた白くて丸っこいデフォルメ調の小鳥と目が合った。あら、可愛い。
「持岡さんのアイコン可愛いね」
「別に。こんなの適当に描いただけだから」
「自分で?」
「そうだけど」
「すご! ふわふわしてそうでいいね、好きだな。ねえ、フォローしていい?」
「えっ……」
聞いてみたら、持岡さんが急に黙った。SNSの画面を見てだんまりだ。軽い気持ちで聞いてみただけなのに、お通夜になるなんて。
やがて、持岡さんふいっとそっぽを向いた。
「か、勝手にすれば」
上擦っていて恥ずかしそうな、小さな声だったけれど、間違いなくOKのお返事だ。いえーい。フォローしちゃお。
「ありがと。私は平仮名で〝こまち〟ってやつだよ」
「そんなの見ればわかるから」
持岡さんはこっちを見ようともしてくれなくなった、けど、私のスマホにピコンと通知が入った。
『Ichikaさんがあなたをフォローしました』。
「あ。持岡さん、フォローありがと」
「別に。目の前でフォローされたら、返さなきゃいけないかなって思っただけだから。じゃあね」
そう言って持岡さんは友だちのところに戻っていった。
ツンツンと素っ気ないけど、お礼言いに来てくれたり、私のSNSフォローしてくれたり、すごく良い子だ。
私はSNSのフォロワー欄を眺めた。やった、持岡さんとほんの少し仲良くなれた気分だ。やっぱり今日はラッキーデー。




