第一章 二十話 紅白戦⑥―一回裏― 『ちゃんと見てるからね』
『あ、久遠さん。』
『は、はい。何でしょう?』
『試合前に言ったこと、忘れないでね。』
『……はい。』
マウンドに上がろうとする彼女にそんな問い掛けをすると一度目を瞑って、それからゆっくりと目を開きそう答えた。どんなことを考えて返事をしたのか、それが理解出来るほどまだ彼女のことを知らない。ただ何となく、強い思いをもって答えたことだけは理解できた気がした。
――――試合前
「……僕からの注文は一つだけ。各回の攻撃、守備の後に隙を見て色々話かけに行くからコミュニケーション、取っていこう。」
「「はい!!」」
スターティングオーダーの発表の最後を言葉で締めくくった。円陣が終わると選手たちは各々試合の準備に取り掛かる。
「あ、久遠さん、ちょっと良いかな?」
「は、はい。何でしょう?」
「今日の肩肘の調子はどう?」
久遠さんは昨日河川敷での練習である程度の球数を放っている。時間にして二時間弱の投げ込みだ。シートノック中の投げ込みだったので通常の投球練習とは違って一球一球の間があったし、途中で休憩も挟んだので極端な練習量ではなかったと思う。
「いつも通りです。問題ないです。」
……けれど怪我だけは避けなければいけない。ただでさえ人数の少ないチームでエースが抜けたら完全に終わる。それを避けるべく、僕は久遠さんにそんな問い掛けをするとそんな返答があった。
「OK。まぁ昨日の練習では直球しか投げてなかったからそこまでって感じかな?……だけど無理は……」
「あ、というより私、変化球投げれないんです。」
「…………え゛?」
………思わずどこから出したのか分からないような声を出してしまった。へ、変化球が投げれない?投げなかったではなく?
基本的に小学生による学童野球では変化球の投球が禁止されている。それは成長過程の肩肘関節の保護を目的としたもので、いわゆる『野球肘』を防止するための措置だ。とはいえ、それはオフィシャルな大会で適用されるルール。――「やるな」と言われればやりたくなるのが子ども心。ましてや自分たちが憧れるプロ野球選手たちが投げる変化球。それを真似て日々の練習、遊びの中で変化球の握りを試すことで自然と習得しているケースはある。
そしてそこからステップアップした中学野球では正式に変化球が解禁される。今まで禁止されていたものが許可される訳で、こぞって投げるようになる。特に学童野球からそのまま中学野球に進んだ子はそんな通過儀礼を経ているので、覚えも早い。
久遠さんはそんな学童野球を経験してきている。だから当然、複数球種とは言わないまでも何かしらの変化球を投げられるものだとばかり思っていた。
「……扇コーチ、その話、マジですよ。」
口を半開きにしながら固まる僕に上原君が試合前の練習の為に着けていた捕手用の防具を外しながら横から補足してくれた。
本人の希望もあって、何度となく変化球習得を目指し練習はしていたそうだ。
練習に付き合った上原君はその時のことを振り返り、遠い目をしながらこう語った。
曰く、カーブがすっぽ抜けて本塁まで届かなかった。
曰く、スライダーが相手ベンチに向けて飛び込んでいった。
曰く、チェンジアップがただの直球にしかならなかった。
比較的習得が容易と言われる部類の球種を一通り試した後で上原君は久遠さんを「絶望的な不器用さ」、そんな一言で表したそうだ。
「えへへ……。」
当の本人は帽子で顔を半分隠し、恥ずかしそうに照れていた。
「……まぁそれでもうちの部員の中では一番コントロールが良かったし、何故か直球だけでもそれなりに試合作れていたんで、じゃあ久遠にやらせてみようってなったんですよ。」
「ん~……なるほど……。」
予想外の事実に顎に手を当て思考の海に沈む。
先週金曜日のバッティングセンターでのキャッチボール。昨日の河川敷での板東二中の練習風景。そして三年間間近で見て来た都立板東の実力。そして今の話。それらを思い起こし、こう結論づけた。
『まず勝つのは無理だろう。』
そんな結論を出した時点で僕の思考は『どこに勝機があるか』というよりも『どうやってこの試合を着地させるか』という方向に傾いていた。
昨日、板東二中の面々に言った『泥臭い野球』とは正反対の思考。けれどプレイヤーと監督、コーチは別の思考で動かなければならない。それは僕が都立板東で選手兼監督紛いのことをやっていたからたどり着けた境地。プレイヤーはただ目の前のワンプレイに全力を注ぐこと。監督、コーチはチームの最終目標から逆算し、今出来る最善を考えること。そこに役割の違いがある。
元より勝つのは難しい。あわよくば久遠さんのピッチング次第では惜敗に着地させたいと思っていたけれど、それすら厳しそうだ。直球のみでうちの野球部を抑えられると思えるほど、僕は楽天的じゃない。これに関しては当然のように変化球が投げられると思い込んだ僕の失策だ。
そうなると焦点は彼女、彼らの『傷』がどこまでなら耐えられるのか。言い換えるのならどんな負け方なら立ち直りが早いか。要は酷い負け方をした時に皆の心が折れないか。それが気掛かりになっている。この試合はあくまで実戦形式での板東二中の実力を知ること。そして少しでも実戦経験を積ませることであって、都立板東高校に勝つ事ではない。
確かに板東二中は投打に渡りそれなりのポテンシャルがあると思った。そしてその中でも特にエースの投球には直球のみという条件付きで考慮しても非凡なものを感じる。……あくまで中学生としては。
才能は磨いてこそ輝く。あの舞台に集う化物たちと間近で戦ったからこそ分かる、稀有な才能を持つ者たちが、その才能を磨きに磨いたその集大成の輝き。その点久遠さんは心身ともにまだ発展途上、その才能が放つ光は淡く鈍い。そしてそんな発展途上の才能くらいなら容易に打ち負かすことが出来る。――都立板東はそれくらいの地力がある。
「扇さん?」
「ああ、ごめんごめん。」
考え込む僕に久遠さんが不思議そうな表情で思考の海に落ちていた僕を呼び戻す。
「…………投手ってさ、特別なんだよね。」
「…………特別?」
マウンド上で捕手を立たせた状態で投球練習を行っているトッキ―を眺めながらそんな言葉が零れた。何の脈絡もない呟きに当惑した様子で久遠さんは聞き返す。
グラウンドの中央に据えられた高さ約30cmにも満たない小高い丘。プレイヤーの中で唯一その頂上に立つことが出来る。それが投手。
「うん、特別。ほら、野球って投手がすべてのプレイの起点になるでしょ?」
「……まぁそうですね。あまり深く考えたことはなかったですけど……。」
「それに成績に『勝ち投手』、『負け投手』って付く。」
野球は団体競技なのにまるで投手だけに勝利に対する栄誉と敗北に対する責任があるかのように形容された成績が付く。
僕は捕手という役割的に試合中に投手に向き合う時間が多い。故に僕は思う。――「投手ほど孤独なポジションは無い」と。
どれだけストライクが取れなくても、どれだけ走者を出しても、どれだけ点を取られても、一度そこに上がったら自分から降りることは出来ないし、自分が動かなければ試合が進まない。良い意味でも、悪い意味でも試合中最も皆の視線を集めるポジション。
「……まぁつまり何が言いたいかって言うと、……『ちゃんと見てるからね』」
「はぁ……。分かりました?」
いまいち僕の言わんとしていることが伝わっていない。けれど今はそれで良い。
「今は分からなくて良い。……でも試合中に今の言葉の意味が分かるときがきっと来るよ。」
「は、はい。」
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ふぅーっと息を吐きだし、空を見上げる。太陽はすでに結構傾いて、照らされるグラウンドは山吹色に変わっている。
うん。大丈夫。今日は何か調子が良い。
イニング間の投球練習の感じがいつもより良い。球の縫い目にしっかりと指が掛かっている。
『試合前に言ったこと、忘れないでね。』
マウンドに向かう私へ扇さんが言ってくれた言葉。……憧れの人に見てもらえる。それだけで気持ちが高揚する。私は自分でも驚くほど不器用で、マウンド上で出来ることはあまり多くないから、ただ全力で目の前の打者に向かって行くだけ。
「うしっ!!じゃあ締まっていくぞ!!」
「「応!!」」
上原君がグラウンドの皆に向けてそう発破を掛け、それに野手全員が応える。
せっかくえりが、皆が取ってくれた一点。何とか守りたい。
ゆっくり振りかぶってこの試合の久遠夏波の第一球目を投じる。




