『彼女は猫が好きらしい』
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初めて大学で彼女を見たとき、彼女は泣いていた。つまらない毎日とつまらない授業、そして代わり映えしない友達にも飽きが来ていた僕は、つまらない授業終わりに泣いている彼女がどうしようもなく気になった。女性に奥手な僕が自分から女性に話しかけるなんてことはとんでもなく珍しいことなのだが、なぜか、そうしないではいられなかった。
「あの、だいじょぶですか。」
すると彼女は、トートバッグから取り出したハンカチで目を拭きながら、顔を上げて僕を見た。
「あ…大丈夫です。猫が死んじゃったのが悲しくて…。」
そう話す彼女は、僕に気を遣ってか笑顔だった。
涙はすぐに乾いたようで、素朴に美しい目元の薄目の化粧も崩れてはいなかった。飼い猫が死んだなんて理由、なんて平凡なのだろうと思ったが、同時になんだか腑に落ちない気持ちにもなった。
「あぁ、そうですか。それは悲しいですね。すみません、急に話しかけちゃって。」
僕は彼女に合わせて笑顔でそう言った。
「いえ、心配してくれてありがとうございます。」
僕も猫が好きなので、その気持ちは少しわかります。その子のためにも、早く………。飼い猫が死んだ人に、なんといって励ますのか、そもそも励ますべきなのか、僕にはわからなかった。僕の慰めの詞は頭の中で未完のまま世に出ることはなく、そのまま僕らは次の授業という圧力に背中を押され、互いにぎこちなく会釈して別々に教室を出た。
次の日、また別の授業で彼女を見た。今までは気づかなかったが、もしかしたら同じ学部なのかもしれない。彼女は僕より数個前の列の席に一人で座っていたが、前日と同じトートバッグを持っていたので彼女だと思った。僕はあえてゴミを教室前方のゴミ箱に捨てに行き、その帰り際に淡い期待を抱きながら彼女を見てみた。彼女は、窓の方に顔を向け、しかし窓の外には目線をやらずに何かを遠い目で見ていた。席に戻りながら僕も同じ方を見てみたが、何かめぼしそうなものは特に見当たらなかった。何を見ていたのか少し疑問ではあったが、そのまま窓の外、青空に浮かぶ雲を見ているうちに、そんなことは忘れてしまっていた。雲は良い。悠々自適に動いているようで、決まった大流に身をおき、それに逆らうことも、それより上に下に動くこともできず、僕らの周りを回っている。包まれている、そういう感覚が、僕を落ち着かせる。なんて思いながら雲を見ていると、いつの間にか現れており、おそらくすでに十数分講義をしていたであろう教授がなにやら重要そうなことを黒板に書き始める音が聞こえた。慌ててメモをしようとノートを開きペンを握り、目線を前に移すと、ふと彼女が目に入った。
後ろから見える彼女の右手には、前日とは違うハンカチが握られていた。僕は僕の胸が高揚するのを感じた。また、泣いているのか。そんなに悲しいなら学校を休めばいいのに。でも左手でシャーペンを握ってノートを書いているし、そんなにひどく悲しいわけでもないのか。というか左利きか。天才かあるいは変人なのだろうか。昨日や今日のこんななにつまらない授業で泣けるんだから、おそらく変人の方なのだろう。まぁ授業で泣いているわけではないが。あ、飼い猫のことを考えて泣いているということは、彼女は授業をまともに聞いていない可能性があるな。やっぱりみんな、退屈なんだなぁ。あっ…
僕が下らない思考を巡らせているうちに、テストに出るだろう重要語句は過去のものとなった。男は失ってから女の大切さに気付くらしい。我ながら感心するほど達観した僕は、この時間を睡眠学習に当てることにした。
大体一時間が経って、周りがざわざわしだしたことで僕は目を覚ました。どうやら授業は終わったらしい。まだ教授が来週の予告などを話しているが、ほとんどの生徒は身支度に夢中で聞いちゃいない。教授の授業がつまらないからこうなったのか、こうなるから教授の授業がつまらないのか。その答えは、「どうでもいい。」と横にいる友達に言われてしまった。最もだと思う。そのまま僕も身支度を終え、席を立った。
また次の日、彼女はどこにも見当たらなかった。
そのまた次の日、彼女を見た。今度は授業が終わり、教室を出ようとしたときに見た。彼女は後ろの席に座っており、左手で頬杖をついていた。勉強道具は一切出ていなかった。片付け終わったなら、さっさと出ていけばいいのに、何をしているんだろう。そう思うと同時に、彼女が泣いているのに気がついた。 「あっ…。」
すれ違う形で横をを通る際に思わず声が出てしまい、その声に反応した彼女と目が合った。
「ど、どうも。」
彼女は一応三日前のことを覚えていたようで、軽く会釈してくれた。やはり人当たりのいい笑顔を見せながら。
「ティッシュ使いますか…?」
どうせハンカチがあるだろうとは思ったが、今日は拭く気配がないので一応聞いてみた。すると彼女は、 「あぁ、いえ、ハンカチがあるので。」
といってやはりハンカチを取り出した。彼女が目を拭っている間、僕はティッシュをポケットにしまいながらたじたじしていた。僕は取り繕うように、会話を続けた。
「あの、だいじょぶですか?」
「あぁ、まぁ、大丈夫です。」
「まだ悲しいんですね…。」
言ってから、とても失礼なことを言ったかもしれないと思った。
「ええ、いつものことなんです。」
彼女はずっと笑顔で答えてくれていた。僕はそんな泣きながら笑う彼女に、どうやら強く好奇心を抱き始めていた。この人は、普通じゃない。
「あの、飼われてる猫さんが死んでしまったのは、いつですか?」
失礼のないように、ないように、と思うと、猫にさんをつける始末となった。
「飼ってはいないんです。」
彼女はそう答えた。飼ってはいない?なら誰の猫が?有名人?それともお世話をしていた野良猫?野良猫に餌を与えると、一人で生きていけなくなるから良くないんだぞ?色々な疑問が溢れてきたが、それを抑え込む。僕らは友達でも何でもない。聞いて良いことと悪いことがある。でも僕は、僕の色めきだった好奇心を抑えられず、身をまかせてしまった。
「え、どういうことですか?」
と僕は尋ねた。すると彼女は、こう答えた。
「私、猫がすごく好きなんです。でも、猫を飼うと、いつかお別れが来るじゃないですか。私は、それに耐えられないと思うんです。だから私は、猫は飼っていないんです。」
それはわかる。僕も猫は好きだが、友達に猫は先に死ぬぞと言われて飼うのを思い止まった。猫はいつか必ず、それも多くの場合自分より先に逝ってしまう。愛せば愛すほど、別れがとんでもなくつらくなるはずだ。仮に自分が先に死んだとしても、残される猫がかわいそうでならない。どちらにせよつらい別れとなるのが決定している。そう、それはわかる。でもこれは、こんなものは、僕が聞きたかったことじゃない。「じゃあなんで泣いていたんですか?近所の猫さんが死んでしまったとかですか?」
「あ、いいえ、違うんです。」
にやにやしながらそう答える彼女に、僕はだんだん腹が立った。そしてそれと同時に、僕の心境にはなにかとんでもないことを聞こうとしているのではないかという恐怖と興奮も交じり始めていた。こんなことは初めてだ。早く、知りたい。
「ならいったい、なんでいつも泣いているんですか?」
僕はもうなにも考えず、ただ答えを知るために突っ走った。すると彼女に、
「いつも泣いているの、知ってるんですね。こっそりしてたつもりなんだけどなぁ。」
と言われた。急に我に返り、恥ずかしくなった。これじゃあまるで僕が彼女を目で追い、探し、注目していたかのようではないか。まるで僕が、彼女のことを好きみたいじゃないか。こうして詰め寄っているのも、周りから見れば僕が猛アプローチしているように見えるのではないか。というか僕は何を言っていたか。もしかして変なことを言ってやしなかったか。僕は慌てて言い訳した。
「い、いや、それはたまたまで…。あ、ていうか、今日は隠してなかったじゃないですか!」
彼女はまた笑って、確かに、と言った。また、続けて、
「じゃあ、わかってもらえないと思うけど、言いますね。」
と言った。もうめちゃくちゃにかき乱されている僕に対する突然の最終回予告に、僕は言葉を失い息を飲んだ。
「私、猫が好きっていったでしょ?あれほんとなんですよ。お別れするのが悲しくて飼えないのもほんと。でもね、私が飼わなくても、猫ちゃんたちは死んでしまうじゃないですか。一回考えたんです。私が飼おうが飼わまいが、ペットショップにいるあの子達は私より先に死んでしまう。なら私が飼って、幸せにしてあげた方がいいんじゃないかって。でもやっぱり、飼ったことのある人の話を聞くと、ほんとうに辛そうで、怖い。だからまだ飼えてないんですけど、それを考えたときに気づいちゃったんです。私が飼おうが飼わまいが、猫ちゃんは死ぬ。私の目の前かあるいは横にいないだけで、世界のどこかでいつも猫ちゃんが死んじゃってるんだって。だから悲しいんです。だから泣いているんです。私、ほんとうに猫が大好きなんです。」
彼女はやはり笑って言った。
驚愕した。なんという論理の飛躍だろう。なんとあっけない話だろう。なんという猫への愛情だろう。この人はおかしい。なにか、ぶっとんでいる。特異だ。狂気だ。恐ろしい。すごい。怖い。僕には理解できない。こんな人に出会ったことがない。僕は数秒経って、彼女にこう言った。
「この後、僕とご飯にいきませんか?」
もう誰もいない教室で、僕の顔は夕焼けで赤く見えただろう。彼女にも負けない笑顔だったのも、胸の鼓動がいつもの何倍も早かったのも、全部窓の外の夕焼けと雲のコントラストがきれいだったからだと思う。
始めまして。いずれしっかりとした名前に変更します。当稿は、近所のファミリーマートで書きました。読んでくださってありがとうございました。
https://note.mu/neco_night_river に転載しています