第8話
食堂の日当りのいい窓際の席に腰掛ける。
翔人はかばんの中から自分のお弁当を取り出して、真っ白なテーブルの上に広げる。
「で、話って何だい?」
向かい側の席には、カツカレーを食べる拓真が座っている。
一回だけ、学食のカツカレーを食べたことが翔人にはあった。
これが意外にもおいしくて、学食人気メニュー一位の座を掴むのは仕方ないと思った。
一時期はその味を再現できないかと台所で奮闘したことだってある。
食堂のおばちゃんに聞いてみたら「愛情かしら」なんて回答が返ってきて絶望したこともあった。結局、再現はできていない。
翔人は、口に入れていたお弁当メニュー率一位の魚肉ソーセージを胃に通す。
口の仲が空になったところで、話を始める。
「驚かないで聞いてくれ」
翔人は最初に断りを入れる。
「何だよ。そんなに人に聞かれたくないのか」
翔人の仕草に拓真が怪しげな光を瞳にともす。
拓真が耳を寄せてくる。
「聞いても大声はあげるなよ」
「だから何だよ」
念には念を。翔人はもう一度、注意を入れた。そして、一息に、簡潔に事実を告げる。
「今、白兎荘に家出少女をかくまっている」
「……え?」
拓真が何回か震えてから、硬直する。
次の瞬間には、拓真の驚きの声が食堂内にこだました。周囲の人間が何事かと翔人たちの方に目を向けてくる。
「……おい」
「ごめん。悪い」
翔人が咎めると、拓真は周囲にも頭を下げた後に翔人にも手を合わせて謝った。
静まっていた食堂内が、いつもの喧騒を取り戻す。そうなったところで、翔人は再び口を開く。
「今、かくまって三日目だ」
翔人はため息をつく。
「それよりも、本当のことなのか? 妄想とかじゃない?」
拓真が翔人の顔を心配そうに見つめる。
家出少女をかくまうなんて非現実的なことに遭遇したなんて言ったら、大抵の人はまず本人の頭を心配するだろう。
幻覚でもみているのか、と。
「本当だって。疑うなら今日の夜、白兎荘に来てもいい」
翔人が言うと、拓真は目を見開いた。
「マジかよ」
「幻覚の方が、はるかに扱いやすいのに……」
翔人はまたもやため息をつく。
冷凍食品のフライの衣がパサついていて口の中の水分が奪われていく。
翔人はセルフの水を紙コップに注いで飲んだ。
「で、それを俺に言ったわけは?」
自分から話さなくても拓真はどんどん切り込んでくる。
話しにくい話の場合、話し始めを促してくれるのでありがたい。
「今週末に山原さんが白兎荘に来る」
「やったじゃないか!」
これにも拓真は目を見開いて驚いた。
そして、笑顔になって祝福してくる。
そもそも、山原さんと翔人が出会うきっかけを作ってくれたのは拓真だったのだ。
何かを自分で企画して人を集めることが苦手な翔人と違い、拓真はそういったことが得意だった。
サークルやイベントに積極的に参加する拓真の交友関係は広く、奥地にある生命科学科だからと言って孤立しているわけではない。
四か月ほど前、拓真に誘われた翔人は珍しく全ての授業が終わったあとに食事会と言われて参加した。
実際はいわゆる合コンだった。
そこで翔人は初めて山原さんと会った。
その時も拓真に手伝ってもらって、山原さんと会話した。
そこで意外にも趣味が読書で気が合い、なんとなく連絡先としてトークアプリのアカウントを交換した。それ以降、拓真や他の人たちも交えて集まったりするようになり、電車内でもたまに話したりする仲になった。
それもこれも何かあるたびに拓真に相談してきたからだと、翔人は思っていた。
拓真がいなければ、存在すら知らずに大学を卒業していただろう。
「問題は、山原さんにその家出少女を紹介して欲しいって言われたことだ」
翔人の顔は相当に深刻そうな顔だろう。
「そもそも、どうして山原さんが家出少女を知っているんだよ」
「一緒に買い物しているところを目撃されていたらしい」
カツカレーを口に運ぼうとしていた拓真の手が止まる。
「なんで家出少女と一緒に買い物なんて行ったんだよ」
拓真の顔には驚きと呆れと感心がごちゃまぜになっていた。
「しばらく白兎荘に泊まることになって、生活用品を買いに……」
翔人の言葉に拓真が左手で顔を覆った。拓真の声は呆れに満ちていた。
「……それじゃあ、同棲始めるみたいに見えたかもな」
「それは困る」
拓真の指摘に翔人は考えていなかった可能性を提示された。
だが、そういう感情は抜きにしても同棲という認識で間違いはないのかもしれない。いや、間違いないだろう。
「それを今朝、電車の中で言われて……、とっさにいとこだってごまかしちゃって。そしたら紹介して欲しいなんて言われて……」
「それで困っています、と」
「そう」
拓真の納得顔に合わせて、翔人も頷く。
「せっかく、山原さんがお前のウチに行くのにな。大きな障害ができたな」
「本当だよ」
「けどそれが無かったら、山原さんも白兎荘には来なかったな」
翔人の疲れた声に、笑みを浮かべて拓真が返してきた。
確かに、そうだ。
山原さんは雪菜を紹介して欲しいと言って白兎荘に来る。
雪菜がいなければそんな会話が生まれるはずがない。
雪菜に感謝しないべきか、するべきか分からなくなってきた。
「問題は、いとこだって嘘を言ったことだな」
さっそく痛い所を突かれて、運びかけたご飯が弁当箱の中に落ちる。
「正直に全部話しちゃえ。その方が楽だろう」
拓真が平然として言う。
「それができれば苦労しない」
「できないのか?」
「……心とか、頭とか、緊張して耐えられない」
翔人は情けないと分かりながらも正直に言う。拓真に見栄を張っていても、バレバレなのだ。
「根性で耐えろ」
「マジか」
拓真は基本的にテクニックだの方法論だの定石だのとうるさいが、たまにこういった根性論を突き出してくる。
アドバイスされた側からすれば、これほど糧にならないアドバイスは無い。
「仕方ないだろう。話すにしても結局内容が一緒なら負担は変わらないし、嘘つき通すにしてもばれたときが怖い。それなら、さっさと話して嘘をついたことが比較的重く見られないタイミングで事実を話すべきだ」
「……まあ」
「だろ。それに、後からばれたときの方が心に負担が来るし信用も失いやすい。今回はいとこじゃないのに、いとこだって嘘をついた。また会いたいとか言われても実現は難しい。そうだな?」
翔人は素直に頷く。
「ほら。後先考えたら、今、このタイミングで嘘を消すのが一番だ」
人差し指を立てながら偉そうに言って、拓真はカツカレーに意識を向ける。
拓真の口に一口大のカツが運び込まれていった。
「やるしかないのか」
思考に沈んでいた翔人は、大きな息とともに言葉を吐いた。
「そう。覚悟は決めときな」
「ああ」
今週末が不安で仕方なくなってきた。
これほど平日が長く続いてほしいと願ったのは、初めてのことかもしれない。
「大丈夫だって。事情を知れば、大抵の人は許してくれるよ」
翔人の不安に満ちた顔を心配したのだろう。拓真がきらきらの笑顔で励ましてくる。
「そうかな」
対して、翔人はやっぱり不安に満ちた返答しかできない。
拓真は翔人の様子を見て、食事よりも会話し続けることを優先にしたらしい。少し考えた後、質問を翔人に投げた。
「ところで、なんで白兎荘に家出少女が泊まることになった。管理人のヤスさんのとこは駄目だったのか?」
白兎荘の事情を知っていれば、当然出てくる疑問だった。
「ヤスさんは白兎荘に泊めることで、その状況を楽しんでいる」
言うと同時にヤスさんの悪戯な笑みが脳裏に浮かぶ。
「あはは。一体、翔人に何を期待しているんだろうな」
当事者からすれば、一切笑いごとじゃ済まされない。
そのせいで翔人はする必要のない気配りや緊張を強いられているのだから。
笑っていた拓真がようやく睨む翔人に気が付いた。
「悪い。お前からすれば笑えないな」
「分かればいい」
それでも拓真の口の端はぴくぴくと震えていた。笑いをこらえているようだ。
外側から見れば、雪菜関連の出来事は全て面白く見えるのだろう。翔人はそう思って、一人で納得した。
拓真はカレーを口の中に運び始めた。翔人も、食事を急ぐ。
しばらく無言で食べていたが、食べ終わりが近付いてきたとき拓真が思いついたように翔人を見た。
「で、その家出少女はかわいいのか?」
一瞬の迷いの末に、正直に答える。
「……ああ。かわいいよ」
実際、最初に見たときは見とれてしまっていたと思う。
直後に雪玉をぶつけられたせいなのか、記憶にないが確かに見とれていたはずだ。
今だって、ふと気が緩んでいるときに見ると、胸の奥がざわつく。色も白いし、体型だってやせ過ぎず太り過ぎずって感じでバランスがいい。
雪菜のことを思い出しても、不快じゃない。
それどころか、鮮明に思い出せることに翔人は驚いていた。
「じゃあ、山原さんと家出少女。どっちがかわいい?」
「えっ……!」
今度こそ、手が止まった。
迷って鈍るのではなく、停止した。思考すらも。
拓真が翔人の目を見つめている。プレッシャーのようなものが翔人には感じられた。
「それは……山原さん、だよ」
歯切れの悪い解答に、自己嫌悪を抱く。
なぜ、即答できない。
「そうか」
拓真が顔を伏せつつ頷いた。
「さ、昼休み終わるぞ。早く次の講義に移動しようぜ」
いつの間に食べ終わっていたのか拓真はお盆を持って立ち上がった。
「ちょっと待って」
翔人は急いで残っていた二口程のご飯を口に入れ、水で流し込んだ。
弁当箱を片付け、カバンの中に乱雑に押し込む。翔人はカバンを持って、お盆を返却口に持っていく拓真を追いかけた。
* * *
帰りの電車の中では、山原さんのことを思い出していた。
理系学科と文系学科で、登校時刻が同じになることはあっても帰宅する時間までもが同じになるケースはほとんどない。
理系学科が遅くなることが大半だ。
冷たい風が体に吹き付けてくる。
空気は澄んでいて、星空がきれいそうだ。
だが、寒い中で首を伸ばして空を眺めていたくはない。
早く暖かい風呂に入りたい。
翔人はいい匂いのする駅前の住宅街を、白兎荘を目指して速足になった。
今頃、雪菜はお腹を空かせているだろうか。
ヤスさんに遅くなると連絡はしていないから、何もしてくれてはいないだろう。
一応、今朝雪菜にはご飯を炊いておくように言っておいた。ご飯はあるはずだ。
さて、献立は何にしよう。
けれど先にお風呂を済ませてからでないとヤスさんに迷惑をかけることになるだろう。雪菜を先に風呂に入れて、その間に何か作っておこう。
いや、出来立てを食べさせてやりたいから下ごしらえだけにしておこうか。あいつはお腹が一杯になれば、そんなこと気にしないか。
「……はは」
出来立てを食べさせてやろうと翔人が思ったのに、早く食べさせろと文句を垂れる雪菜の姿が浮かんだ。
その姿が面白くて、つい声に出して笑ってしまった。
「はは……は……っ……」
笑って。笑って。罪悪感に類似した不快感を持つ感情が沸き起こってきた。
なんで、雪菜のことばかり考えているのだろう。
翔人は認めたくない感情が、すでに自分の中に芽生えていることに勘付いていた。
考えを振り払うように、足早になる。
あっという間に白兎荘の前に着いた。
鍵をポケットから取り出して、ドアを開ける。
ドアを開けると、台所からひょっこり顔を出している雪菜の姿が見えた。
「おかえり!」
久し振りに聞く言葉だった。
これまで白兎荘に帰ってくるとき、中に人がいたことはほとんどなかった。
学年が下だった頃は、おかえりと言う立場だった。言われる立場になる頃には、白兎荘から翔人以外の住人がいなくなっていた。
だからだろう。とっさにただいまと言うことができなかった。
「……ただいま」
間を置いた後に、目線をうつむかせて返す。
帰ってきたときに言葉があることが、こんなにも安心するのだ。
さらに返ってきた雪菜の笑顔で過剰に癒しを感じてしまう。
「あたし先にお風呂入っちゃった。ヤスさんが帰ってきたらさっさと風呂に入ってくれー、だってさ」
「分かった」
翔人は伝言に従い、自室で着替えを済ませ風呂に入った。
お風呂からあがってくると、予想通り雪菜がご飯を急かしてきた。翔人は文句を言いつつも自分もおなかが空いていたので手早く作る。
そしてできた簡単晩御飯を、二人で向かい合って食べる。
まだ、雪菜と会って三日しか経過していない。
そのことが、信じられなかった。
もうすでに、翔人の景色の中には雪菜が自然と溶け込んでいた。
それが、違和感を起こす。
「なあ、雪菜……」
翔人は箸を止めて、疑問に思うことを口にしようとした。
何日もここに泊まっていて、大学も行かなくて、親とか友達は心配していないのか?
「あっ、そういえば翔人は何で今日帰ってくるの遅かったのかなー?」
「……さあな」
勢いを削がれてしまった。雪菜のにこにことした顔に口を閉じてしまう。
「あ、ごまかすんだー。にやにや」
「にやにやを口で言う奴なんて初めて見たぞ」
「教えてごらんよ。どうして遅かったの? おかげでお腹がすいてしょうがなかったんだからね」
雪菜の頬がフグみたいに膨れた。
「ただの課題だよ」
女の子はかわいいのが分かっていて、こんなことをするのだろうか? 分かっているのならば、それは犯罪だ。
「あ、目を逸らさないの。本当ならあたしの目を見て言いなさいっ」
今度は俺が膨らむ番だった。
「本当に課題かなあ?」
雪菜のニヤニヤが増す。
「友達と遊んでた? それとも、本屋にでも籠もってた?」
答えない翔人に、雪菜はより赤みを増してフグになった。もうハムスターだ。
だが、次の瞬間に顔が削げ落ちた。
「もしかして……女?」
真っ暗な瞳が、どこを見るともなく翔人の顔を突き刺している。
その豹変に驚く前に、背筋が凍った。
冷や汗が背筋をつーっと滑り落ちた。
「なーんちゃって。何、そんなに真面目な顔してるの? けど、本当に女の子だったら嫉妬しちゃうなあ」
「はは……。冗談キツイよ」
元通りに笑うようになった雪菜。
さっきの顔は一体、何の顔だったのだろう。
「んー、おいしかったよ。ごちそうさま!」
雪菜は食べ終わった食器をシンクに片して、るんるんとした雰囲気で冷蔵庫からサイダーを取り出した。
「理由はなんでもいいけど、遅くなるときは連絡してよね」
そう言い残して、食べ終わっていない俺を台所に置いて部屋に帰って行った。
* * *
『明日は何時ごろに行けばいいかな?』
翔人の指が弾むようにスマホの画面を撫でる。
『何時でもいいよ』
『お昼頃から行ってもいいかな?』
『なら、お昼前においでよ。俺の手作りでよければ、ご馳走するよ?』
『ホント? なら十一時くらいに行けばいいかな?』
『うん、いいよ。じゃあ、十一時ね』
『明日、楽しみにしてるね!』
返信をしばらく眺めていた翔人は、画面を閉じると枕に顔をうずめて声にならない声を叫んだ。