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第7話

 休日が明けた月曜日。

 その朝は、人を憂鬱にさせるだろう。

 しかし、今日の翔人はむしろ解放感に溢れていた。

 大学へは最寄り駅まで自転車で十五分ほど行って、そこから電車で十五分ほど揺られれば、その名もずばりの静山大学前駅というものがある。

 冬の早朝。その冷たい空気が翔人の鼻腔を刺激する。

 翔人はコートの裾を合わせ、マフラーを口元まで隠れるように上げた。自転車をこいでいるときは動いているので暑かったが、ホームで電車待ちしていると寒い。

 手をポケットに入れて、回復を図る。

 ホームにアナウンスが流れる。

 しばらくしてオレンジ色のラインが入った電車が目の前に停止した。

 ドア脇についた開閉ボタンの開を押して、ドアを開く。降りてくる人はいない。

 この駅から乗り込むのは、サラリーマンが主だ。学生の姿は、翔人を含めても数人しかいない。

 それでも、席が埋まるほどには混雑している。そして、ここからの三駅くらいで一気に人波が押し寄せてくる。

 オフィス街の中心地の一駅手前が大学前駅だ。

 何人かのスーツ姿のおじさんと共に車内に入った翔人は、ドアのわきに寄り掛かる。

 この駅から乗り込む人は定位置が決まっていた。入って奥のドアの横に寄り掛かるのが翔人の定位置だった。

 車内に滑り込んでいた冷気が遮断され、車体に一拍遅れて体も揺れる。

 ゆったりの景色が流れ始め、ホームが住宅の景色に変わった。

 その景色も、川を渡ってからは特に変化のない住宅街が続き、トンネルをいくつかくぐると武骨な灰色の塊に変貌する。

 翔人は、川を渡ってからの景色は眺めるのをやめていた。

 かわりに肩に掛けたかばんから、文庫本を取り出して読みはじめる。

 それが翔人の平日の毎日だった。けれど、それだけが翔人の通学の楽しみではない。

 翔人が文庫本から顔を上げる。

 次の駅に停車した電車のドアが開く。

 翔人は、向かいに現れた人に手を上げて笑いかけた。


「おはよう、山原さん」

「うん。宇良くん、おはよう」


 その女性も同じように笑いかけてくれる。

 山原南帆。

 翔人と同じ静山大学二年だ。

 ゆるりとウェーブのかかった黒髪で、毛先がコートの肩を撫でている。おっとりとした顔で、雰囲気もほんわかしたものを纏っている。周りを落ち着かせる何かを、山原さんは持っていた。

 雪菜とは大違いだ。

 翔人は山原さんの姿を見て、そう思っていた。

 いつも通り、山原さんは奥まで入ってくる。そうして、翔人とは反対側に寄り掛かるのだ。

 けれど、今日は違った。

 翔人の隣にやってきたのだ。翔人は少し、居住まいを正す。


「どうしたの?」


 翔人はちょっと高めに声を出す。文庫本は読んでいたページに愛用の栞を挟んで、手に持っている。


「今日は何て本を読んでいるのかなって」

「ああ」


 山原さんは翔人が手に持った文庫本を見て聞いた。

 翔人は、文庫の表紙を開く。始めのページにタイトルと作者、出版社が書かれている。


「直江幸文さんのいくつもの影」

「私も読んだやつだ」


 山原さんが大人しい笑みを見せてくる。


「へえ、おもしろかった?」

「それは読んでのお楽しみでしょ」


 いけないことをした子供をしかるような顔になって言う。


「それもそうだね」


 翔人も笑顔で答える。

 本の内容の面白さは、読んだ本人にしか分からない。

 それに、何を面白いと感じるかは人それぞれだ。他人の評価だけで読まないのはもったいない。

 だから、読み終わる前に本の評価は聞いてはならない。山原さんがいつも言っている。

 翔人も最近はこれに倣うようにしていたが、まだまだのようだ。


「本当はそんな話をしに来たんじゃないの」

「じゃあ、何?」


 雪菜が相手だったら、翔人は何だよ、と返していただろう。

 駅に停車したので、人が乗り込んでくる。

 ここから、本格的に車内が混雑を始める。山原さんも、少し翔人の側に詰めてきた。

 翔人はさらに体を細くする。


「昨日、女の子と歩いていたでしょ」


 瞳に興味津々というラベルが貼られている。


「昨日?」


 翔人の背中に冷や汗が流れる。

 緊張が喉を締め付け、声が出しづらい。

 目撃されるとは、思っていなかった。不意打ちで言われた事実は、翔人の頭を真っ白にした。


「そう。和泉のショッピングモールで見たんだ。昨日のお昼くらいかな」


 これは誤魔化せそうにない。

 翔人は直感した。

 この言い方は、相当はっきりと目に捉えられていたのだろう。


「結構、かわいい子だったよね」


 山原さんが言葉をつなぐ間も、翔人はどう言い訳しようか頭をフル回転させていた。


「それに、仲良さそうだった。一体、どんな関係なのかな?」


 さらに一駅進んで、車内がより混みあう。山原さんも、さらに踏み込んでくる。


「おっと」


 大きく揺れて、車内の人垣も揺らいだ。山原さんが躓いて、ドアに寄り掛かるようになる。


「大丈夫?」


 寄り掛かると言うより、ぶつかるようになっていた。

 心配して、翔人は声を掛ける。


「大丈夫だよ」


 新年も成人式が過ぎると、高校や中学校、小学校も冬休みが明けるのだろう。

 先週は見られなかった制服姿や、小さな制服姿が目立つ。さすがに小学生は乗っていない。

 翔人も成人式に出席する年齢だったが、実家が遠い上に、大学が始業していたので地元には帰らず、成人式に出席はしなかった。

 両親や祖母にいろいろ言われた。中学校や高校の友人にも某トークアプリで声を掛けられたが、謝って今度また遊ぶ約束をして終わった。


「それで、どんな関係なのかな?」


 ハプニングがあっても山原さんは忘れてはいなかったらしい。


「それは……」


 翔人は苦笑いで誤魔化そうとする。

 目つきは、やっぱりそれでは許してくれないらしかった。早く答えなければ、より怪しい関係だと思われてしまう。

 翔人の目が泳ぐ。吊り広告に目線を逃がしては、山原さんに戻し、窓の外に目を流したと思えば、山原さんに戻しを繰り返す。


「いっ、いとこだよ。久し振りに会ったんだ」


 下手な誤魔化し方だ。翔人は自分を馬鹿だと心の中で殴る。


「本当かな?」


 山原さんが、疑念に満ちた目で見つめてくる。


「本当……だよ」


 ちょっと後ろめたくなって、本当のことを言いたくなってしまう。

 翔人は、焦りを顔に出さないように必死になる。

 平静に。


「へー。かわいいいとこだね」


 一転して山原さんはいとこだという答えで引き下がってくれた。

 ここで、翔人たちが寄り掛かっていた側のドアが開く。この近辺でこちら側のドアが開くのは、静山大学前駅しかない。

 地下鉄でもないのに、大学名が駅名に使われているのは珍しいだろう。

 それも、静山大学が大規模で古くからある大学だからこそ成せる業だと言える。


「今日からは混むね」


 押し出されるように、翔人と山原さんはホームに降り立つ。

 周りを速足だったり、音楽を聞いていたり、友人と笑いあったりしながら、多くの人が階段やエスカレーターに向かって流れていく。

 このほとんどが静山大学の学生たちだ。

 静山大学の学生たちを吐き出しても、混雑に見える車内を振り返っていた山原さんの言葉に、翔人も同意する。


「そうだね。まあ、ようやく普段通りになったとも言えるけど」

「それでも、嫌だね。慣れたりはしないかな」


 山原さんは本当に嫌そうな顔をしていた。相変わらず、人が多いのは嫌いらしい。


「行こうか」

「うん」


 翔人と山原さんは並んで、ホームを歩きはじめる。

 少しだけ立ち止まっていたからか、人の波はホームからは無くなっていた。電車もすでにホームから離れていった。


「かわいかったね。宇良くんのいとこ」

「……そうだな」


 山原さんの中で、その話題はまだ続いていたらしい。翔人の中では、電車を降りた時点で終わっていたのに。


「いとこならさ、紹介してよ。あんなかわいい子なら、お友達になりたいな」

「え……」


 山原さんは一瞬なら納得してしまいそうな理屈で攻めてきた。

 いや、山原さんは別に攻めるとか頭にはこれっぽっちも無いと思う。翔人から見たら、そうとしか感じられなかった。


「いや、それは……」


 さっきから翔人の返答の歯切れが悪い。

 山原さんに、雪菜を紹介するのは危険だ。雪菜には言い聞かせても、自分からばらして楽しもうとしそうで、怖い。調子に乗った雪菜は本当に怖いと思う。


「あ、そうだ。前、話していたよね。覚えてないかな。今度、宇良くんの家に本を見に行くって話なんだけど」


 山原さんは、翔人の歯切れの悪さを気にしない。


「そういえば、そんな話もしていたね」


 知らないとは答えられなかった。


「今週末に行ってもいいかな?」

「今週末に?」


 成人の日が月曜日にあったので、今日は火曜日。

 週末までは今日を入れて四日しかない。同性の仲の良い友達だったなら、どうとでもない時間だが、異性相手だと長いとも短いとも取れてしまう時間だ。

 部屋は常に清潔に、整理整頓している。

 しかし、心の準備に時間がかかる。

 そして、雪菜対策が翔人の頭を痛める原因だった。


「だめかな?」


 改札を出て、横断歩道で止まる。もう大学のキャンパスは目の前に見えている。

 特に週末に予定はない。断る具体的な理由も、翔人には思いつかなかった。

 本当は断りたいが、嘘を重ねてついてまで断ることに対する罪悪感の方が苦しかった。

 信号が青に変わる。

 山原さんが歩き出したので、翔人も足を踏み出す。


「来てもいいよ」

「やった。じゃあ、時間はあとで連絡する。都合が悪かったら教えて」

「うん。分かった」

「じゃあ、またね」


 山原さんは大学の中に入ったところで、道を左に折れていった。

 翔人は山原さんを見送り、道を直進する。

 翔人の所属する生命科学部はさらに奥だ。翔人と山原さんの学部は違う。山原さんは、敷地内の手前にある国際学部だ。

 国際学部と違って、翔人の生命科学部は敷地内の最奥部にある。

 大学の看板ともいえる場所にある国際学部と深部の生命科学部。その位置関係でここまで仲良くなれていることが奇跡に近いことだった。

 翔人は、雪菜のことをいとこだと言ってしまったことを後悔し始めていた。



* * *



 午前中最後の科目である物理化学の授業が終わった。

 翔人は教科書類をかばんの中にしまい、隣で教科書を楯に眠りこけている奴を起こす。


「起きろ、拓真。昼ごはんだぞ」


 肩を揺らす。ようやく拓真は目を覚ました。


「ごめん、翔人。寝ちゃってたか?」

「それはもう、気持ちよくな」


 翔人が言ってやると、拓真は申し訳なさそうに笑った。


「今日のノート見せてくれない?」


 拓真は、たまに授業で寝落ちしてしまう。そのたびに、授業中に必ずと言っていいほど寝ない翔人が、ノートを見せる。それが、一年生のときから続いている。


「俺がいなかったらどうするんだ?」

「自分で教科書見る」

「じゃあ、そうしろ。俺だって、勉強するんだ」

「常に?」

「……」


 拓真の思わぬ返しに、口が止まる。


「それに、嫌だね。できる事の中で最善を探すのが俺だよ。今は翔人がいるから、翔人に頼るのが最善だし。教科書から自力でやるのは時間がかかりすぎる。遊ぶ時間が欲しいから、短時間で済む翔人のノートを頼らせてよ」


 拓真が手を合わせて、翔人を拝む。

 翔人はため息をつきながらも、かばんから今日の物理化学のノートを取り出した。


「ありがとう。さすが翔人っ」


 目を輝かせて拓真がノートを掴もうとする。


「あれっ」


 掴もうとした瞬間、翔人は手を引いた。拓真の手は空を掴む。


「後でな。先に昼食おう」


 翔人はノートをかばんにしまいなおし、改めてかばんを肩に掛ける。


「確かに。お腹は空いてる」


 拓真も教科書や、途中まで書かれているノートを閉じてかばんにしまう。

 拓真がいつも学食で食べるので、翔人は弁当持ちだが、一緒に学食で食べる。

 今日もそうだ。


「お待たせ。行こう」


 翔人と拓真は学食に向かった。


「今日の授業難しかった?」

「そこそこだな」


 難しかったか、なんて個人の主観に基いた質問は困る。

 けれど、他人の主観とはいえ重要な意見だ。特に、得意教科や、成績が似た者同士な場合は。


「翔人がそこそこなら、俺にはちょっと難しいな」


 物理化学は拓真より、翔人の方が得意だった。

 かわりに拓真は有機化学系が得意だ。翔人は細かい物質の名前を覚えるのが苦手なのだ。


「でさー、拓真に相談したいことがあるんだけど」


 翔人は道すがら話を切り出す。

 拓真に聞いてほしいこと。それは、当然雪菜のことだ。そして、山原さんのことも。


「長くなる?」

「なるかも」


 少し思案してから、翔人が答える。


「食堂に着いてからな」

「分かった」



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