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第一話

 

 その日、翔人はため込んでいた未消化の本を読み切ろうと朝から机にはりつくようにして本を読んでいた。


「ふう。読み終わったぁ……」


 手に持っていた本を机の上に置き、凝り固まった腰や肩を伸ばす。

 腰から鈍い音が聞こえてくる。相当、動いていなかったらしい。

 窓の外はもう暗い。

 しかも珍しいことに、雪が積もっていた。確かに、天気予報でも雪の予報が出ていたが、本当に降るうえに積もるのは珍しい。

 翔人も何年かぶりに雪が積もったのを目にした。

 時計はもうすぐ午後七時を指し示そうとしていた。


「急がなきゃ!」


 翔人が住んでいるのは白兎荘という、大学付属の小さな宿舎で、台所、トイレ、洗面所が揃っているくせに、風呂が無い。

 そのため、白兎荘の管理人が住む隣の家まで風呂に入りにいかなければならない。

 当然、風呂の時間は指定されている。休日は七時十五分までに入浴を済まさなければならない。だが、平日は連絡すれば、いつでも入れるようにしてくれる。

 翔人は着替えと洗面道具を持って、玄関に走る。

 雪が積もっているのを思い出して、慌てて上着を羽織る。

 外に出ると、真っ白な世界が広がっていた。

 雪原と呼ぶには狭すぎるが、きれいだった。

 歩いた人が誰もいないため、平らな雪面が街灯の灯りを反射して輝いている。暗い空間の中で、純白に輝く地面に、感嘆の息をつく。

 ここに、今から足跡をつけてしまうのは気が引けた。

 しかし、お風呂に入らないわけにもいかず、また寒いため躊躇は一瞬だった。

 翔人は一息に、隣の家屋へと走る。

 じっとしていれば、凍ってしまいそうな寒さだ。


「こんばんは!」


 翔人は隣家の玄関の引き戸を開け、飛び込んだ。すぐに閉める。

 中は銭湯のような形になっており、サンダルを脱いであがると、右にカウンター、左に男と書かれた暖簾が見える。とりあえず、暖かい空気に包まれたことでホッとする。


「遅いよ、宇良くん」


 奥からたしなめるようでいて、どこかからかうような声が聞こえてくる。


「すいません、ヤスさん。ちょっと夢中になっていて」

「夢中になっていたって、何に?」


 カウンターにちょっと噂したくなる感じの美人なお姉さんが現れた。

 安達安子。通称・ヤスさんとして、親しまれていた。今では呼ぶのは翔人だけだ。

 茶に染めた髪をバッサリと切って、ボブカットにしている。前髪にはこだわりがあるらしく、おでこを見せつけるように出して、髪留めでいつも留めている。

 風呂上がりだったのか、髪は湿っていて、頬にはりついたりしているものもある。そこに煙草をくわえているので、何やら大人の色香とでもいうものがプンプンしている。

 すっぴんでも十分にきれいな肌は大抵の女性にうらやましがられるだろう。

 だが、この人。少し問題がある。


「読まずに溜まっていた本があったから、ずっと読んでいました」

「え? エロ本?」


 こんな人である。


「その返し、そろそろ飽きてきたよ?」

「えー」


 この人は女性の癖に、いろいろはしたない。下品な話題を男相手に臆面もなく出してくる。

 それで、からかってくるのだから面倒な。


「そうは言っても、男の子なんだし読むでしょ。もしかして、最近はネットかな? それとも、宇良くんってゲーム派だったりするの?」

「読まないし、ゲームもしません。俺は二次元じゃなく三次元です。そんなだから、結婚相手をドン引きさせて逃がすんじゃないんですか?」

「彼氏とかの前ではお淑やかにちゃんと振る舞っているから! それに、け、結婚とか考えてもないしッ!」

「あれ? この間、どっちが先に結婚するか勝負していた相手に負けて悔しがっていませんでしたっけ?」


 ヤスさんがギクッと肩を震わせる。


「悔しくないし。焦ってもないよ」

「本当ですか?」

「だって、三十に片足つっこんだだけだし」


 たらりと、ヤスさんの額に汗が滲んだ、ように見えた。

 何年も前から白兎荘の管理人としてここに暮らしているらしいが、すでに適齢期も終盤を迎えてしまいそうな年頃なのである。

 昔に何度か白兎荘に住む男子学生を食い物にしていたらしいが、実らずに三十路に片足を入れたわけだ。

 そもそも、なぜここに就職してしまったのだろう。

 ヤスさんの人生の失敗劇はそこから始まっている。

 最近は焦りが顕著に出始めている。友人の結婚報告があった日はいつも怒っているか、愚痴を学生相手に延々とこぼしているかだ。

 翔人も、声をかけられればまんざらでもないが、十歳年上は悩んでしまう。まあ、ヤスさん自身も、学生相手は諦めているらしいが。


「三十路って、婚期逃していません?」

「うるさい! さっさと風呂に入れ!」


 翔人の一言が突き刺さったらしい。前のめりになって翔人を風呂の方へ押し出す。

 その際にゆるいTシャツを着ていたせいで、それなりに豊満な胸の間が見えてしまう。

 これだけの容姿と体があれば男なんてホイホイと釣れそうなのに、いまだに独り身で、現在は彼氏すらいない。

 やっぱり、性格のせいなんじゃ、と思う。

 そんなヤスさんをかわいそうに思いつつも、からかうのを翔人は楽しんでいる。


「はいはい」

「さっさと風呂行けー!」


 これ以上やるのはかわいそうだ。風呂に入る時間も少なくなってしまう。翔人はさっさと風呂場に向かった。

 それにしても、ヤスさんは男がいない他にも気の毒ではある。

 この白兎荘は、昔は大学の部活動の合宿用だった建物だ。

 合宿を遠方で行うようになって利用することが無くなってからは、一応学校への便が良いので学生用の宿舎として開放された。そして、今の白兎荘が生まれたのだ。

 だが、白兎荘では翔人が小さい頃に何か事件があったらしく入居希望者は大きく減ることになった。さらに、大学により近いところに学生寮が建てられ、本格的に白兎荘の存在意義が失われてしまった。

 そして、最後の入居者である翔人が卒業と同時に、白兎荘は取り壊されることが決定したのだ。

 翔人は大学二年生。

 二年後には白兎荘は取り壊され、ヤスさんは管理人という職を失う。

 ヤスさんはそのことには触れない。

 次の職はどうするのだろう、と考えるが翔人の力ではどうしようもない。まして、ヤスさんだって大人だ。学生の心配なんて無用だろう。

 時間も無かったため、手早く体を洗い、熱いお湯のはられた湯船につかる。

 かつての入居者たちがいれば、この湯船もいっぱいになった。しかし、一人の今は身長が百八十センチある翔人が体を伸ばしても、余裕がある。

 ゆっくりできるのは嬉しいが、少しでもにぎやかだった頃を経験している身としては寂しさも感じてしまう。

 白兎荘は建物の中、廊下に面して各部屋が向かい合っている。

 食堂があるわけでもないし、清掃業者がいるわけでもないので、食事やトイレ等の掃除は当番制にしていた。

 そのせいか他の住人とは家族同然の生活を送るため、仲良くなる。その生活も楽しかった。

 だが、翔人の他の住人はもう出て行ってしまった。

 卒業ではない。

 自主的に白兎荘を出ていき、最悪の場合は自主退学というケースもあった。

 白兎荘には異名がある。


『退学荘』


 実に学生の住まう場所としては不謹慎な異名だ。

 昔から白兎荘に住む人は退学していったらしい。それも、何年も立て続けに。

 それは現在も続いていた。翔人が入居した当初は。翔人を含めて五人の入居者がいた。最後まで残っていてくれた人も、冬を迎える前に退学していった。

 現在、白兎荘には翔人しか住んでいない。

 ヤスさんの厚意で、他の部屋の鍵ももらっているため、完全に翔人の一軒家状態なのだ。

 熱いお湯の中で、強引に体を温めて風呂を出た。熱いお湯だったせいか、短時間の入浴でも少しのぼせてしまっているらしい。

 脱衣所に備え付けのドライヤーで髪を乾かしながら、体をクールダウンさせていく。今日は雪も降っているくらいに寒い。湯冷めしないように、入念に乾かす。

 脱衣所から出ると、カウンターの前の談話スペースのようなところにあるソファにヤスさんが寝転がっていた。


「出ましたよ」

「はいよ」


 翔人が向かいのソファに腰掛けると、今どき珍しい瓶のコーヒー牛乳をくれた。

 ありがたく頂戴し、乾いた喉に流し込む。おいしい。

 ベタだが、やはり風呂上がりのコーヒー牛乳はおいしさが跳ね上がる。

 ヤスさんも二本目のコーヒー牛乳の瓶を開けようとしていた。


「湯冷めしないように帰りな」

「はーい」


 当然、帰りも走っていくに決まっている。

 お風呂から上がったばかりの体で、その空気にあたっていたら風邪をひいてしまう。


「宇良くん。今夜は出るかもしれないね」


 ヤスさんが唐突に言った。

 出る、か。


「出たとしても、俺は白兎荘から卒業まで出ていきませんから」

「頼もしいねー」


 白兎荘が退学荘などと呼ばれるようになった理由。

 それは、ほぼ毎年のように入居者から退学者が出ているからだが、白兎荘から出ていく人は必ずある経験をしている。

 枕元に幽霊が出るらしいのだ。

 ぼんやりとしていて性別は定かではないが、おそらく女だと言われている。

 その幽霊が出ていけ、出ていけと囁くそうだ。最終的にはわめき散らすように叫ぶらしい。そのストレスに負けて白兎荘から出ていくそうだ。

 笑い飛ばしたくなるような話だが、何人もその理由で出ていくのだから簡単には笑えない。

 しかも、いつの頃からか寒い日に出やすいなんて噂が出始めたのだ。

 今日は雪が降った。

 それだけ寒いということは、噂通りなら幽霊が出てくるのではないだろうか。住人はもう翔人のみ。出てくるとしたら翔人の前以外ありえない。


「幽霊がかわいい女の子で、かわいく出ていってなんてお願いして来たらどうする?」


 少しシリアスな雰囲気だったのに。

 やっぱり結婚できないのはこんな性格だからじゃないだろうか?


「かわいい女の子なら願ったり叶ったりですけど、出ていきませんね。他人の指図で行動するのはあまり好きじゃないし」

「逆に襲っちゃう?」

「あんまり下品にしていると、男も逃げていきますよ」

「うるさい! 余計なお世話だ!」


 ごちそうさまでした、と空になった瓶をヤスさんの前に置く。拳を振り上げていたヤスさんの腕を押さえつつ、逃げるように洗面道具を持った。


「じゃあ、帰りますね」


 翔人はささっとサンダルを履いて玄関に手をかける。


「待ちな! 年上の女をからかった罪、思い知らせてやる!」

「お断りします」


 翔人は玄関を開け、ヤスさんから逃げるように白兎荘に駆け戻った。


次回の投稿は12月8日(木)23時です。

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