第9話
翌日、本当に山原さんが白兎荘でご飯を食べていた。
翔人は目の前に山原さんがいるのに、いまだに信じられずにいる。
これは夢なのではないだろうか。
山原さんの隣では、雪菜が笑顔でご飯を頬張っている。
今日のメニューは肉じゃがと簡単な野菜の炒め物、それにサラダを添えてある。雪菜は炒め物の肉を集中的に食べている。
「雪菜、行儀悪いよ」
「好きな物を食べて何が悪いー」
そう言いながら、またお肉をかっさらっていく。
山原さんの手前、強い口調にしづらいし、実力行使にも出ることができない。
今回は見逃してやる。翔人は密かにテーブルの下でリベンジの拳を握った。
「雪菜さん、よくそんなに食べて太らないよねー」
山原さんが雪菜の食べっぷりに目を丸くしている。
山原さんには既に先日の嘘は訂正してある。何か文句のひとつでも飛び出すかと思ったら、特にお咎めはなく仕方ないよと許してもらえた。
よくそんなフィクションみたいなことが起こったね、とも笑われたし、彼女かとも疑われたが全力で否定した。
その説明をしたうえで、部屋にいた雪菜を呼んで昼食となった。
で、翔人が盛り付けをしている間に二人はそれぞれの自己紹介を済ませ、それなりに仲良くなってしまっていた。
仲良くなるのはいいことだが、翔人は内心面白くない。
「そんなことないよー。ちゃんと太っちゃう」
「本当に? どうやってその体型維持しているの?」
女の子にとっては必死な話題なのだろう。
山原さんの目がなんとなく本気の輝きを帯びている。
「どうやってだろう?」
雪菜は必死な様子の山原さんに対して、すっとぼけたように首を傾げた。
「えー、教えてよ」
「本当に分からないの。思い返してみても……あれ、どうやって痩せたんだっけ?」
「俺に聞くな」
疑問形で見つめられた翔人は呆れ声で答える。
「それ太らないってこと?」
「かも」
「羨ましいなー」
雪菜に羨望の眼差しを向けた山原さんは、目線を前に戻し肉じゃがをパクリ。
「おいしいなー」
「ありがとう。けど、悲しい顔で食べられるのは複雑だなあ」
「むー」
山原さんが肉じゃがを見つめて唸っている。
かわいい。が、いつまでも眺めていてはいけない。
「持ち帰って食べる?」
「いいの?」
「もちろん」
意外にも山原さんは食べものに執着する人だったらしい。
それに、ダイエットでもしているのか余計に食べものが恋しくなっているようだ。
翔人の答えに山原さんは小さなガッツポーズまでしてくれた。
「それにしてもおいしいね。宇良くんの作ったご飯。特に肉じゃが」
「何回も言われると照れるよ」
「こんなご飯だったら、独り占めしちゃいたいなー」
じゃがいもを口に運びながら何気なく口にしたことなのだろうが、翔人の胸の緊張具合は一瞬で最高潮まで跳ね上がらされた。
顔が熱くなり始めたとき、横から鋭い声が入った。
「駄目っ!」
その鋭い声に山原さんも肩を跳ね上げた。
雪菜が顔を若干だが赤くして山原さんを睨んでいた。
「独り占めなんて、許さないよ」
表情に対して静かな口調だった。
糸が張りつめたような緊張感が食卓を侵食していく。その中で、最初に動いたのは山原さんだった。
「じょ、冗談だよ~」
あはは、と苦笑いしている。
が、そのおかげで翔人も動き出すことができた。
「俺は独り占めなんかされないよ。作って欲しければ、言え。作ってやる」
そう言って頭に手を添えてなだめてやる。
そうすると、雪菜は頬を膨らませながらも大人しくなった。
「なんか、仲いいね」
山原さんが温かい目で雪菜を見ていた。
「そうかな?」
どちらかと言えば喧嘩は多い方だ。だから、決して仲は良くないだろう。
「お互いのことが分かっている感じ、かな?」
「まあ、何回も喧嘩はしているし、雪菜の食べものの好みは嫌というほど理解したかな」
「ほら、そういうところ」
山原さんはいたずらっぽく笑った。
かわいい。
「ん、ごちそうさま」
山原さんが手を合わせて食卓に向かって一礼する。
「食器は流しに置いておけばいい?」
山原さんは自分が使った食器を持って立ち上がる。
翔人はそれを急いで手で制する。
「いいよ、俺が全部片付けておくから」
「それは、悪いよ。なんなら食器洗い手伝おうか?」
「いいって。お茶淹れるからゆっくりしてて」
翔人が頑なに拒んでいると、山原さんの顔が拗ねたようになってしまった。
「宇良くん、私のこと家事できない系女の子だと思っているでしょ」
かわいく突き出された唇が食事の後だからか、いつもよりつややかだ。
「そんなこともないって」
「じゃあ、手伝う」
山原さんは食器を流しに置いて腕まくりをしてしまった。やる気は十分らしい。
観念して手伝ってもらうことにした。
雪菜も食器を棚に戻す作業を手伝ってくれた。そのおかげで早く片付け終えることができた。
「じゃあ、ゆっくり本の話でもしますか」
「うん、そうしよっ」
お茶を淹れてから、お盆にお菓子も乗せて二階に上がる。
本棚に囲まれた部屋に入ると、山原さんは驚きの息を漏らした。
「聞いてはいたけど、実際に見ると壮観だね」
「でしょ」
これは密かに翔人の自慢だったりする。
簡単には人とは共有できないが、分かる人には分かるのが本に囲まれる幸福というものだ。
あらためて見たが、この本に囲まれた部屋は壮観だ。
本を頑張って集めたかいがある。
「あたしは目がチカチカしてきちゃうな~」
「お前は別に自分の部屋でゆっくりしていてもいいんだぞ?」
「そうやってあたしを除け者にするんだ。ふぅん」
こいつ、めんどくさいな。
「……くす」
山原さんが口元に手を当てて笑っている。
「本当に仲がいいんだねー」
「でしょでしょ!」
雪菜が翔人の腕を抱きしめ、山原さんにピースする。
「……ッ」
柔らかい感触が肘のあたりに押し付けられている。
少し嬉しいのも事実だ。だが、山原さんが見ている。
「やめろよっ!」
翔人は山原さんに誤解されたくなくて、かなりの力をこめて雪菜を引き剥がした。
――痛いよ
翔人の背筋を、得体のしれない何かが走り抜けた。
雪菜が何かを低い声で呟いたが聞こえなかった。
雪菜はうつむいたまま畳の上にへたりこんでいる。
乱れた髪が顔を隠して影を作っていた。どんな顔をしているのか分からない。
「宇良くん、力入れすぎだよ」
山原さんが雪菜を心配して声をかけている。
「ごめん。力入れすぎた」
雰囲気から相当に罪悪感が湧いてきた。
いつもならからかってくる雪菜が静かにしていることから、今回は本当に酷いことをしてしまったと反省する。
「うん。許す」
雪菜が淡い笑みを浮かべる。
「よし、雪菜ちゃんも一緒にお喋りしよう」
「しよう。お菓子食べながらね」
二人の仲がよさげな様子に、翔人は息を漏らす。
各々好きな位置に座り込み、お菓子を食べながら駄弁る。
雪菜も興味がありそうな本を探してみたり、長いこと放置されていたボードゲームを引っ張り出して遊んだりした。
何も考えずに過ごす午後はあっという間に過ぎてしまう。
「じゃーね!」
「またね、雪菜ちゃん」
玄関先で挨拶をする二人を一歩引いて眺める。
「じゃあ、俺は山原さんを駅まで送っていくから留守番していろよ」
「分かった」
翔人は山原さんと共に薄暗くなった道を歩く。
空は赤く染まり、二人の前に見える影もどこか薄く色づいている。
「楽しかった。ありがとう」
山原さんが笑っている。
逆光で暗いが、表情も。
「こちらこそ、大したおもてなしもできなかったけど」
「そんなことないよ。ご飯もおいしかったし、本はすごかったし、お話は面白かったし」
山原さんは前を見つめて楽しそうに話している。
逆光で表情はよくわからない。
「雪菜ちゃんもすごくいい子だったし。宇良くん、本当に楽しそうだったよ」
「そうかな」
わがままで強引な雪菜の姿を見ている翔人としては納得いかない評価だ。
「送ってくれてありがとう。宇良くんも気を付けて帰ってね」
改札まで送る。
「またおいでよ」
翔人の言葉に山原さんは思いつめたような顔になった。
「うん。楽しかったし、また行けたらね。けど、少し辛いかな……」
「?」
最後の方に向かって尻すぼみになっていってしまってよく聞こえなかった。
「雪菜ちゃんと仲良くね。大事にしなきゃだめだよ」
「ああ。気を付けるよ」
「雪菜ちゃんに頑張れって伝えて」
「? ……よくわからないけど、伝えておくよ」
「ありがと!」
山原さんはそう言うと、背を向けて改札を通ってしまった。
そのまま階段を上ってホームまで走り去ってしまった。
「えっ!」
改札の手前で呆然となる。
少し前に出ていた手をポケットの中につっこむ。
夕日が届かず暗い改札の向こうと、朱に染まる改札前。
翔人はしばらく向こう側を眺めてから、駅を立ち去った。
* * *
先週末は山原さんが白兎荘に来て、ドキドキした。
けれど、最後の別れ方だけは翔人の心の中にわだかまっている。
「ん……」
カーテンが開いている窓からは、透明な月明かりが差し込んでいた。
その光に照らされているものは、色彩を薄くされ、空間に浮かんでいるかのように目に映っている。
翔人は寝返りを打って、布団の中で丸くなった。
「寒い……」
部屋に暖房は無い。自分の体温で温まっていた布団の中に、寝返りによって冷たい空気が少しばかり流れ込んできた。
枕元にある時計が、まだまだ夜は明けないことを教えてくれていた。
「雪菜……」
頭に浮かんでくるのはあの夕食時の雪菜の顔だった。
あの、表情が無くなった、消えた顔。
真っ黒になった瞳が、すっと影を落とすように翔人の網膜に残っていた。
あれは冗談なんかじゃない。本気の寒気がしたのだ。
そう、山原さんが来た時にも同じようなものを感じたことは記憶にも新しい。
翔人には、どうしてもあの顔と声音が演技だとは思えなかった。
今までもそんなことがあったが、ついに翔人の心から疑念が溢れ出た。
「どうしたんだろう……?」
漏れ出た呟きは、弱々しかった。
雪菜に家や大学のことを聞こうとしたら、遮られることは何度もあった。
自由奔放な雪菜にしても、遮り方が不自然だとは思っていた。
何かあるのだろうか?
睡眠の間に生まれた疑念は、睡魔と共に薄くなっていった。
翌日の朝、登校前に携帯を見ると、ヤスさんからメールが来ていた。
『今日の夜、雪菜ちゃんは白兎荘に置いてうちに来られる?』
「何だ?」
今までにないメールに翔人は眉を寄せた。一体、何の用があるというのだろう。
とりあえず返信する。
『分かりました。夕食後に行きます』
翔人はメールが送信されたことを確認し、かばんを持った。
「行ってきます」
玄関から一階の奥の部屋まで声が届くように声を上げる。
「行ってらっしゃーい!」
元気な声と共に、奥の部屋からひょこっと現れたツメクサのような笑顔が翔人を見送ってくれる。
念のため戸締りを翔人がしていくが、ドアを閉めるまでこっちを雪菜が見ていてくれて思わず笑ってしまう。
鍵をポケットにしまい、翔人は晴れ晴れとした気持ちで足を踏み出した。