する感覚
どうして俺は小説を書き続けられないんだろう?
ふと、そんな事を思ってその事を考えてる内に、そもそも「する感覚」が自分に芽生えてないんじゃないかとそう思った。
俺の言ってる「する感覚」って何か?
それは単純に「なんとなく」の事だ。
俺の場合で説明すると「なんとなく暇だからゲームでもしよう」っていう感覚を「なんとなく暇だし小説でも書こう」という風に変えることが出来れば、俺は毎日数時間小説を書く事が出来ると思ったわけだ。
つまりは、今の俺にとって小説を書くという事はなんとなくする様な事ではないという事だ。
そして、そんな今の俺でもゲームだったらなんとなく出来てしまうというわけだ。
じゃあ、俺にとってゲームをする事と小説を書く事って何が違うのか?
そう自分に問いかけてみて、まず思いついたのは楽しいと感じてるかどうかという事だった。
確かに俺はゲームを楽しいと感じて今日までずっとやってきた。
だけど、そこまで考えて気づいたのは、今の俺はゲームをそんなに楽しいと思ってなくても毎日数時間やり続けられるという事だった。
という事は、なんとなく何かをする感覚に楽しさはあまり関係していない。
ここまで来ると、まぁ、なんか、行きつく先が見えてきてしまった。
ここで急に話を変えて、少年時代の思い出を振り返ってみようと思う。
あの時の俺はサッカーのフリーキックをもっと上手くなりたいと思っていた。
だから俺はサッカーで全国大会に出場するような奴に、どうやったらフリーキックが上手くなるかを教えてもらう事にした。
そして実際にグラウンドに行き、ゴールに向かってお手本のフリーキックを見させてもらい、
「まずボールに対して40度から45度ぐらいの角度で助走は4~5歩。蹴る時の軸足の位置はこの辺。ボールに当てるのは親指の付け根辺りを意識して、当たる瞬間に足首をグッと固めて擦りあげるように振りぬく……」そんな様な説明をされて、その時の俺はその説明を聞いただけでもう既にフリーキックがめっちゃ上手くなった気がしてた。
で、実際に教わった通りに意識してフリーキックを蹴ったよ?
だけどボールの軌道はその人と比較にならなかった。
そんで、言われるわけでさぁ……
「まぁ、あとは数をこなしてけば良くなってく……」って。
……お前、結局、そっちが本題だろう!!!
なんていうか、要するに感覚って人生そのものなんだろう。
そして、いつか俺が「小説を書き続けるにはこういう時はああで、こんな時にはこうで」って自分自身の感覚を言えるようになった時は、小説家として一つ格が上がった事になるんだろうな。