三つ、私は闇に追われるⅡ
「羨ましい話ね……」
彼らからしたら、人間など気にも止めない存在なのだろうか。
「……やっぱり、お礼くらいは言ったほうがいいよね」
「ななちゃん、さっきから独り言?」
「ん、まあ、そんなとこ」
いけないいけない。長年一人でいることに慣れた私には、独り言が多い。今まではそれでよかったが、これからは違うのだ。
部活紹介を終えると、今日も一日が終わる。
帰り道が一緒のクラスメイトと帰る時もあれば、一人で帰るときもある。どちらも苦痛ではない。もう私の周囲にあれは現れない。居たとしても、遠巻きに私を見ているだけで、恐るるには足らない。不思議と身体の調子もいいように思える。寝起きもばっちりだ。
ゆゆはやはり、美術部を見学に行くと放課後になると恥ずかしそうにそそくさと去ってしまった。
自由になった私は、当てもなく学院内をぶらついていた。
「平和だ……」
風の音、部活で人が騒ぐ音。昔の私には腹立たしかった騒音が耳に新しく聞こえる。いかに昔の私が荒んでいたかが今なら良くわかる。
何もない。予定も何もないが、それがなんとなく嬉しかった。
足の赴くまま進むと、やはりあの桜の木へとたどり着いていた。
桜の花はまだ満開で、とても美しい。きっとハルが風を制御しているのだろう。ここでは優しい風が吹く。グラウンドで人が活動しているところも、ここなら少しだけ見ることができた。
視界を遮る桜の花びらの中を見渡しても、彼の姿も、ハルの姿も見ることはできない。
彼は、『ここにはもう来るな』というようなことを言っていたような気もする。あの時の記憶は、あまりの現実味のなさに私の頭の中から消えていくのも早い。
「人間は、人間の世界で生きろ、ってことかな」
私は一人で笑う。そう、それが自然なのだ。彼は私を人間にしてくれた。それだけで十分だろう。
私は桜を十分に楽しんだあと、その場をあとにする。やはりここだけは、空気が澄んでいる。人臭くないのだ。それを思い出す。
「ありがとうございました」
その場所から去る時、私は改めて深々とお辞儀をした。それが私と彼の、最初で最後の出会い。
これから先、私は人間の世界で生きていく。
毎日クラスで授業を受け、ノートを頑張って取り、復習をして。
帰り道に寄り道をして、休日に待ち合わせをして、好きにショッピングをしたり、今までの感謝をしようと、お世話になった神社巡りなんかをした。
遠巻きに幽霊が見えることもあったが、私の世界に彼らはやはり入ってくることはなかった。
瞬く間に四月が終わり、五月になった。GWには毎日遊んだ。夜中に勉強というハードスケジュール。楽しいということは、非常に疲れるけれど。その徒労感がたまらなかった。
クラスにも馴染みつつある。皆いい人たちだし、男子との中も良好だ。好きな人はいないけれど、恋の話は女子には尽きることはなく続く。
そんな毎日が続き、私はもう、この生活に慣れきってしまっていた。人間界の生活に。
当然だ。私は人間界の生き物なのだから。もう、生きるべき世界を迷うことはない。そう思っていた。
それは、ある日の登校中のことだった。
いつものように、駅へ向かう道のりの中。
朝の街はいつだって忙しない風景に視界を阻まれる。世の中は大変だ。スーツを着て、毎日早足の大人が靴音を鳴らす。まるでその靴音でこの国の景気がわかるような重苦しい音が響いていた。車の騒音、時折響くクラクション。
人間界はそんなにいいところでもないな、と思うところも最近は多々ある。けれど、それを思っても仕方ないことは分かっている。
駅の改札口で人ごみに紛れながら、改札を目指して歩いていた時だ。
「――ん?」
何か、泥のような、滑りけのあるものを踏んだ、ような感触がした。
立ち止まって足元を見るも、何もない。泥などあるはずもない。昨日今日と、実によく晴れた日だった。
「気のせいかな」
もう一歩歩き出す。も、またその感覚が靴底の裏に。
ぬるりとして、歩けなくはなさそうだがもしかしたら滑ってしまいそうな、油よりも濃厚な液体のような。
なんだろう。私は目を凝らして、それを見た。
いや、見ようとしてしまったのだ。何気ない違和感を。靴の裏側には、いつのまにかガムがへばりついていたのだ。普通の人間にはそれだけだった。
が、私が見たのは別のものだった。
ヘドロ、ではない。黄色がかった、透明で、粘着質のあるものが、靴底にへばりつき、そして地面に垂れる。
ぐちょ。
そんな音がした、ような気がした。
私は、それがなんなのか理解できなかった。周囲を見渡しても、人は無関心を装って歩いている。音は、しなかった。
上を向けていた靴底を、地面に戻す。
今度は確実に、何か物を踏んだような感触と、踏まれたものが甲高い悲鳴を上げた音がした。
足下で蠢く存在の主張に、私は怖気が走った。身体が無意識に震えだす。
見てはいけないと思いつつ下を見る。それ以外に私に出来ることはなかった。
そこには、巨大な多足多節の、奇妙な、気持ちの悪い、触手の生えた、常識ではありえない、虫のようで、悪魔のような、吐気を催す、そんな存在が居た。
足に力を入れてはいないはずのそれは、一層甲高い声を上げると、ちぎれて絶えた。
先ほどと同じような黄色と緑色の粘液を吐き出しながら。触手がまだ痙攣していた。
なんだこれは。脳が思考を停止した。
立ち尽くす私を、通行人が奇妙な瞳で見つめる。
私はその視線に押されるように歩き出した。改札を通り抜ける。
心は機能していなかった。ただ、機械のように足を動かした。
駅のホームへと上がる階段は、もはや人間世界の様相をなしていなかった。
コンクリートはずの壁が、土、いや、腐肉のような質感だった。ところどころ空いた穴から何か小さなものが蠢きこちらを覗き、奇妙な植物が怪しい光を放っている。地面には死骸やその成れの果てが転がっていて、死の気配が充満している。
私の脳は、その時初めてこの事態を理解しようとしていた。理解できないことが幸せなこともあるのに。
振り返ると、もうそこに人の姿はなかった。
内側の胸ポケットに手をやる。確かにそこに、御守りはあった。
「どうして!?」
咄嗟に叫んだ。冷静になることは無理だった。御守りはあるのに。神の加護があるのに。
叫んだことで、世界が侵食を始めた。ホームに続く階段だった穴は、徐々にコンクリートを肉壁にかえ、私の人間世界を飲み込もうとしていた。
「や、やめて……」
私は鞄を落とした。壁からは異形の生き物が次々と現れ、壁や地を無数に這い回る。まるで生まれているように、次々と、絶え間なく。
異臭がした。死の匂いだ。鼻を覆っても、それは皮膚に触れ、鳥肌を立てる。
ここには死と絶望しかない。無残な死体は、強者に食べられるわけでもなく、ただ残酷に、意味もなく、理由もなく、唐突に殺される。
食われるものは無慈悲に、容赦なく、意識あるまま、身体を千切られながら激痛に息絶える。
「やめてよ……」
折角、人間の世界で生きる術を手に入れたのに。
「なんでっ、私にはこんなものが見えるのよっ!!」
気が狂いそうだった。いや、こんなものを見る私はもう狂っているのかもしれない。
心が受け入れようとしている。
そう、私はもともとおかしかった。
『狂う』素質があった。
幽霊を見ることもそう。人間の世界に馴染めないこともそう。まるで私の世界がここではないような。
では、私はどの世界に生きればいいのか。どの世界なら私は平穏に生きることが許されるというのか。
何かを振り切るように改札を逆走し、駅から外に出る。まだ人間の世界が見えるうちに。人間の世界のある方向へ。
その先には、見慣れた広場があって。ビルが有って、情緒も何もないけど、人の住む世界があって。だけど。
コンクリートは腐れたように剥がれ、骨と死肉と赤土の大地がそこにあった。
赤い空には雲のように無数の異形の鳥が舞い。大地には死体が絶えず、造形など滅茶苦茶な生物たちが歩き回る。
草木でさえ敵意を持っているように花を咲かせ、そこかしこに虫のような奇妙な存在が蠢いている。見渡す限り、文明的なものは何一つ見当たらない。
私の何かに亀裂が入り、崩れていく。
「ふふ……」
私は笑っていた。だけど、涙が溢れて頬を伝った。
元々、私が生きていたのはこんな世界だったのかもしれない。私が見ていた世界は、こんな世界だったのかもしれない。
壊れかけた心は、楽になりたくて今目の前にある現実を受け止めつつあった。
「夢だったんだ、何もかも」
今までで楽しかったことも。桜風学院なんてのも、本当はなかったんだ。
私には友達なんて居なかったし、楽しいことなんて無かった。神なんてこの世にいないし、世の中は辛いことだらけ。
楽しかった一時は、私が見た幻想だったのだ。私の世界は、これが全て。
絶望が入り込んでくる。私たちの絶望が形を成した世界だ。当然のことだ。
「そりゃそうだよ。だって、私の世界はこんななんだもの」
破壊的な現実に、目を閉じて視界をシャットアウトする。
微かな期待があった。目を閉じて、もう一度開ければ、また夢を見られるのではないか、と。
しかし、再びあけた瞳に、あの世界の風景が映ることはなかった。どんな風景なのかも、思い出すこともなかった。
どこまでも醜悪で、希望も何もない、ただ生まれ、ただ殺される、ただ食われるためだけに生きる、そんな世界。
「なんで私は、この世界に生まれたのかな」
何か暖かいものが心の中に残っている気がした。夢で見た暖かい記憶。
もう何が嘘でも本当でも構わない。
どうせ死ぬのなら、この暖かい記憶の篝火を抱いて死のう。無になろう。
私は全身の力を抜き、瞳を閉じて地面に横たえた。無数の蟲が私の肉を求めて這う気配がする。
そんなことさえ、もうどうでもよかった。
生きているよりも、死んだほうが楽なこともあるよね。
誰に語るでもなく、私は心で呟いた。たった一つの篝火を抱いて。私は眠る。永遠に。暖かい篝火が消えないように。