エピローグ
タンソンニュット空港に現れたテレーズは、白い麻のドレスを着て、黄金の髪が熱帯の風になぶられるままに立っていた。
「ヴォーグの撮影に来たのかい?」
ジョニーはからかったが、テレーズからは、あんたはいかれてるという返事が返ってきただけだった。
数カ月前にプノンペンが陥落した事すら知らないジョニーの政治音痴に呆れたテレーズから、カンボジアへの密入国という馬鹿げた計画を強硬に押し止められた後、ジョニーはバンコクにひとまず落ち着いて、情報収集をしながら様子をうかがう事にしたのだった。
「しつこいようだけど、生きているうちにバントアイ・スレイを拝む事は出来ないと思うわよ。」
「現段階の君達の分析では、だろ。せいぜい、長生きするよう努めるよ。」
テレーズは肩をすくめた。
「本当に本部の仕事をやる気はないの?」
「先の事は決めたくないんだ。」
「案外賢明な選択かもしれないわ。」
「ありがとう。元気で。」
ジョニーは、テレーズの肩を抱き寄せた。
肉の薄い背中を、軽く叩く。銘柄はわからないが、おそらく高価なフランス香水の香りがジョニーを優しく包んだ。テレーズの微笑も、優雅そのものだった。それは、幻惑する戦闘の女神などではない、現実に生きている女の微笑であり、そちらの方がはるかに好ましかった。
「じゃ、行くわ。」
残務のために、危険に満ちた市内へ戻るテレーズと別れ、ジョニーはバンコク行きの出発ゲートに向かった。
これから先の人生は、巡礼のようなものになるだろう事の不思議さに、ジョニーは一人感じ入っていた。バントアイ・スレイは、カンボジアでもとりわけ厄介な地域にあるらしいから、生きてこの目で見られるかどうかは、夢に近いものなのかもしれない。
それで結構、と受け入れるしかなかった。今の瞬間から先が、たとえ災厄の連続だとしても、それすらも愛しながら生きてゆくだろうという、ふてぶてしい予感があった。
常に真夏の青を映した、どこまでも広がる空の彼方に、戦乱の現実と中世の夢が交錯する。終わることのない日々に向けて、ジョニーは己の存在をまた一歩、踏み入れた。
‐END‐
お読み頂き、ありがとうございました。
本文中に登場するバントアイ・スレイという寺院は、一般的にはバンテアイ・スレイと表記されていますが、登場人物の設定上、フランス語表記にしました。ちなみに、ここ数十年でめまぐるしく変化し、現在は一応落ち着いているインドシナ情勢にあって、カンボジアのこの寺院は観光客の人気スポットの一つになっています。