丼と車と子供
翌朝。
目覚めた北斗がリビングに行くと、既に朱鷺が朝食をとっていた。
「おはよう。」
「………お、おう。」
「挨拶もろくに出来ないのか。」
そう言って不機嫌そうに彼女は食事を口に運ぶのだが、
上手く返事が出来ず、彼が固まった事にも理由がある。
朱鷺の前には馬鹿でかい丼が二つある。
そのうちの一方は既に空になっており、もう一方にはカツ丼らしき物が入っていた。
そして、テーブルの上には新聞が広げられ、その隣にはラジオが置かれ、イヤホンで朱鷺の片耳に繋がれている。
テレビはニュースが流されている状態だ。
もし、聖徳太子が存在していたならこんな感じであろうか。
などと考えてしまったのだ。
「あ。キッチンは勝手に使わせてもらった。食材は今日仕入れてくるから、
必要なものがあるなら、冷蔵庫に貼ってあるメモに書いておいてくれ。」
お、おう。と未だ状況が掴めておらず、動揺を隠せないでいると、レンジがチーンと合図を告げた。
北斗の嫌な予感は的中し、案の定、朱鷺が中から新たな丼を取り出した。
『牛丼………どれだけ食べるんだよ。』
少し胸やけをおこしそうだったが、気を取り直して自分用にトーストと珈琲を用意し、
朱鷺の向かいに座った。
「昨日は眠れたか?」
不思議とそう聞いてきたのは北斗のほうだった。
「何故だ?」
「いや昨晩、“激しかった”から、声が煩くなかったかなって。」
北斗は万遍の笑みで答えた。
気遣いと見せかけて、遠回しではあるが明らかに攻撃的だ。
そして朱鷺は一口、水分を取って落ち着いて口を開いた。
「爆撃が絶えない場所で一週間過ごした事はあるか?」
「………いいや?」
「あれの音に比べれば人の声など可愛いものだぞ。」
「…………。」
「詳しく話を聞くか?」
「いや、いらない。」
残念だ、とわざとらしく振る舞う。
やはり彼女の存在が得体の知れないもので、迂闊に話を聞くのを拒否してしまう。
たぶん、本能だ。
「そうだ、昨日言ってたリストの件だが。」
「結果がどうとか言ってたやつ?」
「そうだ。実はリストに載っていない厄介なやつがいる。
フリーで行動をしていて、データがどこにも存在しない。
仕事先でよく見かけるんだが、どうやらそいつもお前達を狙っているらしい。
もし、低い背丈でカメラを持っているおっさんをみかけたら注意しろ。
一度見たら二度とは忘れられない外見なんだが、こいつがまた腕がいいんだ。
出来れば、関わりたく無かったんだがな。見かけたらすぐに知らせて欲しい。
あと、隙を見せるなよ。」
「…そんなに危険なのか。」
「危ないと言うより、情報屋としての腕が立つ。
あと、地形を熟知しているはずだから、すぐに撮られる。」
「君のライバル?」
「そんな意識は無いが、簡単には手が出せない相手だ。
どんなに調べても名前も素性もわからない。
だから私は“野猿”と呼んでいる。」
「そんな奴を俺達が見つけられるのか?」
「嫌な奴でな、必ずターゲットに会いに来る。近いうちにお前達の前に現れるだろう。」
「……なんで?」
「嫌な奴だから。」
正直、君とどっちのほうが嫌な奴?と聞きたかったが、あえてそこは口にするのをやめておいた。
すると、扉が開いてようやく藤が姿を現した。
「あ、藤!」
がつんっ
北斗が止める間もなく、藤は扉で頭をぶつけた。
大丈夫大丈夫と手を上げるが、目が開いてない。
北斗は彼の手を引いて椅子に座らせる。
そして、彼の分のトーストと珈琲を準備する。
未だ、藤はぐったりしたままだ。
「低血圧なのか・・・?」
「朝が弱いだけだよ。」
目が開かないままトーストをかじる彼の姿は、テレビで見るあの男前の印象を引き裂いた。
『色んなものをガードしないといけない気がするな。』
珍しくも今度は朱鷺のほうが心配する羽目になった。
食事を取り終える頃にもなると、流石に藤も覚醒した。
仕事に向かう支度をし、駐車場に止めてあった車に乗り込む。
「ずいぶん遅くなっちまったかな。」
「悪いね、初日から頭を下げさせちゃうね。」
後部座席の二人はそう朱鷺に言った。
だが、顔は笑顔のままである。
何を隠そう、彼らはわざと準備を遅くしたのだ。
子供顔負けの嫌がらせである。
だが、運転席から振り向いた朱鷺は本当に不思議そうな表情をして言った。
「充分、余裕で間に合うが?」
「「え?」」
この言葉の意味を理解していなかったことを、二人は死ぬほど後悔した。
ぎゅぃぃいいん!!
ぎぎぎぎ!!
ききーっ!!!
ぎゅおぉん!!!
中々、効果音を言葉に表すのは難しい。
ただ、とりあえずこんな感じの音で車は動いている。
「ちょ!」
「喋らないほうがいいぞ。」
声にもならない悲鳴が上がる。
ジェットコースターでもこんな酷いものは無い。
ふと隣りの藤を見た、その目にすでに生気は無い。
程なくして、目的地に着く。
後部座席のドアがゆっくり開き、北斗がふらつきながらなんとか出てきたが、
「おえぇ……。」
と、吐き出しそうになり、屈み込んだ。
そんな姿を気に止めることもなく、朱鷺は声をかける。
「仕事が終わったら連絡しろ。すぐに迎えに来る。」
ばたんとドアは閉まった。
窓の向こうの藤がまるで誘拐されたような表情を見せ、車は発進し、あっという間に見えなくなった。
時計を見ると恐ろしいことに、充分間に合っていた。
「無茶苦茶だろ………。」
藤の事が頗る心配になったが、ふらふらしながらもスタジオに入って行った。
こんな40間近の男は嫌だ。