老いた獣はかく語る
グルルと低く鳴る喉に欠伸を一つ。
隣の獣は涎を垂らしながら後ろ足で器用に頭を掻いた。
流れる黒髪に沿って動く後ろ足は目も覚めるようなオレンジで、見ていて少し、頭が痛くなる。過剰に色を捕らえるこの瞳には、彼の過剰な色彩は少々辛い。それでも体は動かないので仕方なく、眼球を下に向けてやり過ごす。
気付いた彼はあぁ、と呻くと後ろ足を黒い毛並みに隠した。
視界の端から消えたオレンジに安堵し、嘆息と共に視線を上げる。
彼の目は見れない。
全ての色をごちゃ混ぜにした彼の目は、見てしまうだけで失神させるから。一つ一つの色全てが鮮やかに、はっきりと入り乱れる目など、きっと他の誰が見ても失神してしまうだろう。
特に、黄色が目に付く時はダメだ。
紫や青や朱の上に乗せられる様に蠢く黄色は、こちらの胃袋まで蠢いてしまいそうになる。
彼は閉じた目のままもう一度、グルルと喉を鳴らした。
つられて出てきた欠伸に声を上げ、浮いていた頭をしっかり壁につける。眠くなれば壁どころか床にも寄り付かないこの頭は、彼とは比べ物にならない深い暗闇に佇んでいた。
一度離れてしまったものをくっ付けるのは難儀な事だけれど、やらなければ一生浮いたままで過ごさなければならない。
この体は動かないのだから、まだ取り返しのつくうちに難儀をしなければならなかった。
多分、彼ならもう二度と浮かないように言い含める事ができるような気がするが、それを頼むのは気が引ける。
彼とは数十年話したことは無い。
顔は良く見知った……いや、顔はろくに見た事は無いからこの言葉は正しくないのだろうが。まぁ数十年、隣に居ながらも一度も話したことの無い相手に、どうして浮ついた頭の説得を頼めようか。
彼の方を見れば、大きな口を開けてその長い三枚の舌で首の毛繕いをしていた。
彼の五本ある後ろ足も器用だが、それ以上にその舌は器用である。
艶かしい紫と煮え立った茶と狂いそうな蒼がてんでバラバラな動きをしながら、首を整える姿は実に素晴らしい。素晴らしいが、今日の首はまるで光るような黄に鮮血を垂らした斑色であるため、些か吐き気を覚える。
彼の動作につられて鮮明すぎる色ばかり追うこの瞳に悪態を吐く。
説教をしてやらなければならないのは、どうやら頭だけではないらしい。
そういえば、二、三日ばかり前に出掛けるといっていた彼の尻尾はまだ帰ってこないのだろうか。
尻尾に放浪癖があるのはずっと前から知っている事だが、まさか彼の尻尾もそうだったとは思わなかった。彼の薄茶の五本の指が黄緑の尻尾を撫でる姿を見るのが好きだったのだが、もう暫く拝めそうに無い。
それを知ってしまえば、難儀をせずとも浮ついた頭を放っておけばよかったと密かな後悔に駆られた。
後悔と言うものは好きではない。
後悔していると自覚してしまうと、より一層色を鮮やかにしてしまう瞳が疎ましい。
こう考える事自体が、瞳を元気にさせてしまうのだが仕方がない。
後ろ向きに全力疾走をしている脳回路では、瞳を宥めすかす事も出来やしないのだ。
「取り敢えず、寝るか」
三度目の欠伸をかみ殺し損ね、思わず舌打ち。
彼がこちらを見る前に目を閉じて、必死に捕まえていた頭を離した。天邪鬼な頭は離した所で大人しく背中の近くに留まっていたのだが、寝ると決めた今では何処に居てもらっても構わない。
ただ、子守唄のように続く彼の低い唸り声が、耳に痛くて仕方なかった。